ある書に曰く、世界はまるで円盤のように平らな円であるらしい。博士が読んだ書物にはそう
あった。つまりはこうである。宇宙には一枚の大きな皿が浮かんでいる。その中には海水が満ち
ている。そうして、その満々たる水の合間に、ぽつぽつと大陸が浮かんでいる。それが世界であ
る。
博士にはその真偽のほどはわからない。実際に自分の住む大地が皿の中に浮かんでいる様子を
見たことがあるわけでもない。ただ、書物にはそう明晰に書かれてあると言うだけである。なら
ば信じてもいいと博士は思う。
世界は畢竟大皿である。海は皿に盛られたスープのようなものである。大陸はスープの具だろ
うか。それはそれでそういうこともあろうと思うから、博士はその大皿説を信じている。
大皿の上には、莫大な空間がそびえている。それは空と名づけられている。空には太陽と月が
浮かぶ。星も煌めく。
ある書に曰く、太陽と月は海から産まれるのだと。毎朝、海は太陽を産む。そうして太陽
は半日かけて空をめぐる。そうして日没の時刻に再び海に没入する。すると今度は東の海が月を
産む。月も夜中かかって天を巡る。そうして夜明けの時刻に西の海に没入する。そして再び東の
空で太陽が生まれる………世界が生まれてこの方、毎日毎日太陽と月は生まれ続けているのだと
いう。
博士はずっと蔵書室に篭っていた。蔵書室の大量の書物をもってしても、幽霊の存在証明は出
来なかった。幽霊はいるという本があれば、別の本はいないという。幽霊の正体は死人の魂であ
るという本があれば、別の本は有機リンであると言う。統一した見解が無く、結局博士は何も得
るところが無かったといっても過言ではない。そこで、博士は存在証明をとりあえず放棄して、
別の方面から幽霊を探り当てることにした。即ち、幽霊は世界のどこにいるのかを探し当てよう
とした。所在地がわかれば、自らそこに赴けばよいのだ。そうして、母の幽霊に会って話をつけ
ればよい。そうして再び知識の海に沈みこんだ。
今度の海も深かった。調べれば調べるほど曖昧に半端になってゆく幽霊の姿は模糊としていて
追いにくい。捕まえたと思った掌の中からするりと抜けて消えてしまう。消えたと思うと再び現
れて目の前でゆらゆらとゆれる。
母の幽霊はいるのだと博士は最早確信している。何故なら一度ならず自分の前で揺らぐ姿を見
せている。だから博士はその影を追わずにはいられない、捕まえずにはいられない。月色の髪の
毛が目の前を掠めるから、博士は眠らない。朧げな腕の感触を不意に感じるから博士は休まない
。いまだ一度も得たことの無い母親の虚像が、今や博士の手の届くところにあるから、博士は文
字を追い続ける。
そうして書物の海をさまよう間に、一つの説に行き当たった。曰く、死んだ人間の魂は月に行
くのだと言う。死ぬと肉体から開放された魂は上へ上へと上昇していき、やがては月に至る。月
には死人の安楽郷があり、そこの魂が発光して月は輝くのだと言う。この説が真実なのだとすれ
ば、夜の灯明たる月光は魂でできているということになる。だとすれば母の魂は髪の毛に宿って
いたのだろうか、母の髪は優しい月の色をしていたのだから。
博士は直感的にこの説を信用した。何故なら母の髪は美しい月の色である。母の魂が月にある
のだというのはいかにも本当らしく聞こえる。死後に月光に宿って地上に降り立つ母の幽霊と言
うのは容易く想像するに足る。だとすれば、母は月にいる。
博士は一つの論理を打ち立てた。恐らく母の本体は月にある。地上で幽霊として現れているの
は母の魂の模造品である。であるとすれば月にいけば母に会えると言うことになる。ではどうす
れば月に行ける?
毎夜落日と同時に新しく生まれ変る月。そうして曙と同時に再び海に溶け込む。どうすれば月
に行ける? ―――――その刹那、博士の脳裏に閃くものがあった。瞬間指先が震え、瞼が痙攣
した。………海から産まれる月、その誕生の瞬間に立ち会えば、月に飛び乗ることも出来るので
はないだろうか?