空は塗りこめたような暗雲に覆われていて、昼か夜かわからないような天気が続いている。
長らく日も月も拝めていないということに気付いた。
白は苛々と爪をかむ。博士が蔵書室から出てこないという事実は相変わらず厳然としている
。離れのようにして設計されている蔵書室は事実上城郭とは隔離されてしまっているので、今
やこの広い城郭に白はただ一人であるといって差し支えない。胸の辺りが塞がってしまったよ
うに気分が悪い。博士は出てこない。むかむかする。心が波紋で乱されてゆく。空を見上げる
のが何とはなしに怖い。最近は月を見るのが億劫になった、すると先日丁度都合よく厚い雲が
垂れ込めてきた。とはいえそのせいで室内は真っ暗で昼夜を問わず灯りが手放せない。
博士は相変わらず篭城している。本しかない蔵書室に引きこもったまま出てこない。博士の
顔を見ない日々が一ヶ月続いた、その一ヶ月目の晩に白は博士の気分を害するのを承知で、博
士に蔵書室から出てくるように注進しに行った。けれども博士は白の言葉を聞き入れてはくれ
なかった。どころか、幽霊がどうこうと白には意味の通らない言葉ばかりを呟いていて、白に
は何が何なのだか良くわからぬまま追い出されてしまったのである。それ以来白は何度も博士
の下に足を運んでいるのだが、やはり一向白の嘆願に取り合ってはくれない。あの折から、博
士の様子はおかしい。鬼気迫っていて、薄ら寒い。
白はあれから何度も博士のもとに足繁く通っているのである。その度にどうかもうやめてく
れ、食事を取って部屋で休んでくれと言い続けているのだが、いったいどれ程博士の耳にはい
っているのかは怪しい。博士はまるで白の存在に気付かないように書物に首っ引きである。そ
の博士の態度が思っていたよりも白にはこたえている。博士はもとより口数の多い男ではなか
ったから今までだって毎日言葉を交わしていたわけではないが、それでも白の存在くらいは認
められていた。今は白が同じ部屋にいることにさえ気付いてもらえない。認めてもらえないの
は辛い。徐々に蔵書室へと向かう足が重くなるようである。
白は今や博士のもとに説得に通うのが苦痛になりつつあった。それは、一つには博士に無視
されるのが耐え難いからである。声を上げて博士の名を呼びかけても博士には聞こえない。肩
に触れても博士には感じない。透明人間か何かのような扱いに、白はすっかり消耗してしまっ
ていた。認めてもらえないのは、存在しないのと変わりない。存在しないならば死んでいるも
同然である。生きながら死んでいるのは針の筵である。けれどももう一つ、白には博士と顔を
合わせたくない理由がある。
先つ頃、白はいつものように重い身体を引きずりつつ博士のもとに向かった。最初の晩こそ
博士は白に声をかけてくれたものの、次の日からは白の存在にまるで気付かないようになった
、だからこの日も白は博士に返事を期待せずに「博士」と呼びかけた。案の定博士は書物の頁
に目を落としたまま微動だにしない、白はもう一度今度は溜息混じりに「博士」と呼びかけた
。やはり反応は無い。諦めて帰ろうと踵をかえしたその時に、白は目の端で鈍い金色を捉えた
。何か肌の粟立つようなぞっとするものを感じて白はぱっと振り返った。そうしたら、博士の
横に、いつの間にか鬱金色の髪の女が立っていた。ざっと体温の下がる音が聞こえた気がした
。あんなところに女がいるはずがない、ここに来たときには博士は一人だった、いつの間にか
女が立っているなんてそんな馬鹿な。若いような年老いたような良くわからない女は、博士の
髪をいとおしげに撫でた。すると博士ははっと気付いたように女の方を見つめて、白が今まで
見たことも無いような子供のように無邪気な笑顔で
「母さん、」
と言ったのだった。白は瞬間金縛りのとけたように走って逃げた。
今思い出しても白は悪寒を感じる。背筋が凍る。あの女、いるはずの無い女、若いのだか老
いているのだかさっぱり見当のつかない不気味な女。白は逃げる時一瞬だけあの女と目があっ
た。そうして顔を互いに見交わした。思い返すだに忌々しい。女の顔は、何故だろうか、白に
そっくりだった。月色の髪の毛だけでない、目の色や顔の感じや醸し出す表情まで、女と自分
とは酷似していた。そうして博士は、あの不気味な女を、あまつさえ母と呼んだのだ。あれが
母親? 自分と同じ顔をしたあの女が? ならば博士は一体自分を何だと思っているんだろう
か、もしや自分は母親の代わりに拾われたのか?
白は思う。もしもあれを母親とするなら、あの女は寧ろ白の母親なのではあるまいか。一瞥
してあの女は博士とは似通うところが無かった。博士が鬼っこであるとしても、どう贔屓目に
見たところで女と血縁関係にあるのは白であるように思える。付近では珍しい髪色といい、顔
かたちといい、博士への慕わしげな態度といい、白と女は類似している。ではいよいよあの女
は何物なのかわからない。博士は自分の母親だという。白も自分の母親であると思う。いずれ
にせよ白はあの女が忌避すべき悪魔であると思っている。否、知っている。あの女はあらゆる
行為の妨げにしかならない、害悪であり悪夢であり厭うべき悪因だ。胸の中でいやな舌触りの
感情がむくむくと膨れ上がるのを感じて、白は
「消えてしまえ売女め!」
と吐き棄てた。
すると、不可思議なことが起きた。机の上にあった口紅が一人でに宙に浮かんだのだ。白は
目を見張った。ふわふわとした動きで宙を滑空した口紅は、ひとりでに蓋をはずした。そうし
てつかみどころの無い夢幻のような動きで、壁に字を書き始める。白は反応できない、不可解
な口紅の魔法をただ呆然とみつめているだけである。口紅はさらさらと流麗な筆記体を壁に描
き、やはり雲をつかむような不安定な動きで蓋を閉じて、再びもとの机上に収まった。白は何
も出来なかった、はっと我に返った時には全てが終わっていて、あっけに取られたまま壁に書
かれた流麗な筆記体に目を投じた。
Two mothers are needless. (母親は二人も要らない)
口紅の溶けてしまいそうに甘ったるい匂いが部屋に充満している。白い壁と艶やかな赤との対
比が豊満な女の肢体を連想させる。母親は二人も要らない―――二人? 一人は蔵書室に出た
あの女、ではもう一人は? 嘔吐しそうに甘い香りが思考能力を鈍らせていく、理性が失われ
ていく代わりに感性がするどくなっていく。文字からは悪罵を投げつけた白に対する敵意など
微塵も感じられない、どころか圧倒的な好意を感じる。はねっかえりの娘を苦笑交じりに見守
るような愛情、見返りを要求しない不尽の好意。白の語彙では、この愛情に当てはまる言葉は
母性愛しかない。文字を書いたのは誰?
考える能力がどんどん低下していく。それを補うように白の敏感な感性が目を覚ます。口紅の
正体を白は半ば直覚していた、あの蔵書室の女だ。誰の母親とも知れぬあの女だ。けれども、
女の書いた壁の文からは母親の愛情がにじみ出ているようではないか? 柔らかな文字の端々
に、白に向けられた陽光のような好意が感じられはしないか? 一見厳しく冷徹に見える文章
の裏に、言い含めるような優しさを感じないか? 白は混乱する。あの女は一体何がしたいの
か、何が言いたいのか?
壁の前に呆然と立ちすくんで白は浅く喘いだ。あの女は、誰だろう?