ある日、博士は蔵書室に閉じこもるのを止めた。その理由を白は知らない。ただ、ある晩白が目を覚 まして何とはなしに窓の外を眺めると、城郭の博士の自室に明かりが灯っていた。朔月の晩のことだっ た。白は目を見張ってその明かりを注視し、目を擦ってから改めて灯りが幻でないことを確かめ、そう して我を忘れて博士の自室へ駆けた。常の白ならば博士の自室には踏み込まないし、仮に用があって赴 くことがあったとしても礼儀としてノックを忘れなかっただろうけれども、その時ばかりは必死で着く が早いか体当たりのように扉を開けて部屋に転がり入った。すると部屋の中には博士が居て、白の狂態 にさして動じた様子もなく「はしたない真似をするんじゃないよ。何か用事でも?」と言った。その様 子は全く普段の博士で、蔵書室での気違いじみた気配はみじんも感じられなかったので、白は呆気に取 られて物も言えない。黙ってまじまじと博士の顔を見つめることしか出来ない白を見て、博士は「僕は もう寝るから、君も早く寝なさい。用事は明日にでも聞くから」と言った。白は無言で従った。茫然自 失の態で博士の部屋の扉を後ろ手に閉めた後、白は今見たものが自分の幻ではないのか一通り疑ってみ たが、やはり博士であったように思われる。考えれば考えるほど頭が混乱して思考の平仄が合わなくな っていくので、白はその晩は己の考えに見切りをつけてとにかく無理やり床に就いた。目を閉じても眠 気の起こらない己をなだめすかしてどうにかこうにか眠りに就いた記憶は未だ生々しい。翌朝寝不足で霞む視 界の中食堂の戸をくぐると、既に博士が卓についていたのを見て、再び白は目を疑った。博士は何事も 無かったように「昨晩の用事は?」と言ったが、白は何を言えばいいのやら五里霧中でようやく「なん でもありません」と複雑な顔で言ったのだった。
 博士の様子は以前と全く変わらない。あの、蔵書室で暮らした期間のことなど無かったことのように 振舞う。博士があんまり堂々としているので白が何か言うのも躊躇われ、結局あの日々は無かったこと のようになっている。博士が母と呼んだ幽霊、白の部屋の壁に口紅で落書を描いたあの幽霊、終局正体 の不明瞭なままの幽霊も何処に行ってしまったのか、現れなくなってしまった。気がつけば白の周りは 完全に以前のとおりになっていて、あの日々が本当にあった事なのかも分からなくなってしまっている 。今思い返してみても、あの期間の日々は現実離れしていて、まるで映画を見ているようにしか思い出 せない。もしかすると夢だったのではないかと現在の白は思う。自分は長い長い夢を見ていて、あんま り長かったものだからどちらが現実だったのか分からなくなってしまっているのではないか。あの現実 感に乏しい日々が現実のものであった証拠は今や何処にもないのだ。夢であったとしても一向構わない 。白は、博士に実際のところを尋ねてみようとは思わない。わざわざ夢を覚ましてしまうのは辛い。
 それでも、以前とは幾つか変わった処がある。
 省みれば現在の生活は博士が蔵書室の住人となる以前とほとんど変わらないのだが、白にしてみれば 現在の生活は以前よりも余程安穏なものとなった。それが何故なのかは分からないが、恐らくは博士を 失った日々を経験して、今があの時よりは随分とましであると思えるようになったからではないかと思 う。かつては足りない所不満な所にばかり目がいって世界は鈍重だったが、今は満ち足りている部分に ばかり注目してしまう。以前と同じに博士は格別白に目をかけてくれるわけではない、けれども全く無 視されているわけではない、穏やかで何も無い日々が恐ろしいくらいに幸福で他に何を求めていいのか 分からない。昨日も今日も同じであるということの安心感に埋没している。世界が鮮やかに色づいてい るのを感じる。
 そうして、微かではあるものの博士にも変化の兆しが芽生えているように思える。相変わらず白と博 士が一つところで時間を過ごすのは食卓においてのみではあるのだが、博士の食堂にいる時間が心なし か延びている。以前のように機械的に食物を口に運ぶのではなく、少しは味わっているように見える。 食後にゆったりとお茶を飲む風景は以前には見られなかったものであった。白にはそれが嬉しい。口に 出して言葉にするのも憚られるような些細な出来事ではあるが、それらは白には瑞兆であるように思わ れてならなかった。加えて、近頃は良く博士が城内を散歩しているのを見かける。それは気分を変える とか、軽く運動するとか、そういう目的のためというよりかは空気を味わい、世界を感じ、景色を目に 焼き付けるためのように、白には見えた。長年博士の習慣は微塵も変わることは無かったにもかかわら ず何故急に変化し始めたのか、それは白の与り知るところではなかったが、それでも良いと思っていた 。そういう変化の数々は、確実に博士の角を削り、機械めいた動作を人間らしく整えていたからである 。
 暫しの平和の時が過ぎて、ある夜のことである。白が何気なく窓の外を眺めたところ、屋上にか細い 洋燈の灯りが灯っているのが見えた。不審に思って目を凝らすと、屋上に博士がいるのが分かる。博士 が夜に外に出ているのは珍しいと思い白は上着を羽織って屋上へ向かった。以前は例え博士が目の届く ところにいたとしても白は滅多に声をかけなかった、それは博士が白を疎ましく思うことの無いように という白の気遣いだったのだが、現在の博士になら声をかけても支障あるまいと白は思った。それを許 すだろう雰囲気を博士は纏っている。細い螺旋階段を上って屋上に出ると、博士の背中の向こうに透け てしまいそうに薄白い月が光っていた。完全なる球体には少し足りない不揃いな月を見て、明日は満月 なのだと白は思った。博士は足元に洋燈を置いて月に見入っている。白が声をかけるよりも前に博士は 言った。
「明日は満月だ。今日の月は消え入りそうな白さだよ」
白は黙って月を見上げた。今日の月は確かにいつに無く白い。白の立場所からは博士の背中だけが見え る。骨ばっていて細長い背中である。
「新月の晩に蔵書室を出たから、今日で十四日だ。この二週間、僕は少し生活態度を改めてみたんだよ 。かつての僕は書物しか知らなかった、書物の中の世界だけが全てだと信じて世界に目を向けてみるこ ともしなかった。ところがこの二週間、改めて目を開き耳を澄まし五感を使って世界を感知してみれば 、沢山の事を知らずにいたことに気付いた。世界は雄弁だ。僕に受容する耳が無かっただけで、世界は 様々な事を囁きかけている。かつて僕の目は文字の上を滑るだけの用しかなさなかったが、今や世界を 見ることも出来る。世界は最良の賢者だ。そうして、美しい」
 博士は腕を広げた。何かを抱きとめようとしているかのような両腕の中に白い月光が降り注いでいる 。白は何も言わずにいる。博士の言葉は止まない。
「外を歩いてみれば、太陽は暖かい。足を踏みしめると土の匂いがする。石畳とは比べ物にならないほ ど柔らかくて足が沈む感じが優しい。植物の葉の色は全て同じ緑ではない、深緑の葉もあれば新緑色の 葉もある。光のあたる部分の草は翡翠色に煌めく。紺碧の空の遠いところで鳥が鳴いているのが聞こえ た、鳥の音も一度として同じでは無い事に気付いた。そう、それに、食事だ。食べ物には味がするのだ とこの間やっと分かった。何もかもがひどく美味しくて、食事が出来ると言うのはありがたいことなの だと知った。食堂に灯りがついているととても安心する。誰かがいるということはそれだけで幸福だ。 それだけではない、窓硝子越しの世界は普段とは違って見えるのが驚くほど感動的だったし、洋燈の周 りに埃が舞うと光を反射して幻想的だった、使い慣れた家具はもち手や背凭れの部分だけが磨り減って いるのがいやに健気に見えた。たった二週間の間に沢山の事を知ったのだ、言葉にしきれないほど沢山 の事を」
 静かに風が吹いた、博士の髪が僅かになびいた。世界中が静まり返っていて、博士の言葉だけが響き 渡る。博士は少し黙って、沈黙に耳を澄ました。
「君の髪を、僕は今まで母と同じ月色だと思っていたが、違ったようだ。君の髪は、月色というよりも 、金色に近い。月よりも、もっと濃密な色だ。豊穣の色、収穫の季節の穂の色、朝焼けの色、金色はそ ういう豊潤で幸多い色だ。僕はそんなことも知らなかった」
 夜の空気が、何処までも冴え渡って、博士の言葉に聞き入っているようだと白は思った。物音一つ聞 こえない。透明な静寂が夜を包んでいる。声を出してしまえば静謐な空気が失われてしまいそうで、白 は息を殺す。博士に白い月光が降りしきる。何も聞こえない無音の世界に月の存在ばかりがうるさい。
 それきり博士はもうなにも言わなかった。白も口を利かなかった。静寂のうちに夜が更けていく。