真夜中に、けぶる蜜色の月を見て、白は不意に(母はどんな人だったのだろう)と思った。そ
もそもが白の記憶というのは至極模糊然としているのだ。脳裏に浮かぶ情景は時系列も空間列も
無視してばらばらに浮かび上がる切れ端でしかないし、そんなだからなのか、いつどんなことが
あったのか全く思い出せない。幼少の思い出など、欠片も思い当たらない。別に脳に障害がある
わけでもなく、虐待を受けて抑制された記憶が云々ということもないから、思い出せないのは単
純に記憶しなかったからなのだろう。子供の頃の日々など、記憶する程の価値も無かった。思い
入れの無い出来事などすぐに忘れるものだ。
そんな白のあやふやな記憶のどこを探っても、母親の影は見出せない。それもそのはずで、白
は恐らく捨て子だったのだと思う。別にだからどうという訳でもないが、それでも思い出す母親
の顔が無いというのは心許無いし、寂しいことなのかもしれないと思った。白にとって母親は、
例えるならば朔月である。あるはずなのに見えない、暗闇の中の月光。
近頃、博士の様子がおかしい。
具体的に言えば、蔵書室から一歩も出てこない。これはかつてなかった事態である。もともと
理性的な人だから、どれほど研究に没頭していても食事と睡眠は定時にしかるべき場所でという
のが必定だったのだが、今は真実の意味で一歩も出てこない。いったい中で何をしているのか、
外側の白にはまかり知れないことだが、いくら博士の生活には不干渉の立場を貫く白でも、流石
に心配になってきている。博士が蔵書室に篭城して明日でもう一月にもなる。肉体的にも精神的
にも限界ではないのだろうか。
全体、何をしているのか。白はしばらく前に、一ヶ月博士が外界に出てこなかったらば無理や
りにでも蔵書室に突入すると決めていた。あと数刻で日付が変わる、そうすれば白は鍵を壊しと
にかく博士を外に引きずり出すつもりである。これまで博士の家に居候する者の最低限の礼儀と
して、彼の仕事だけは邪魔すまいと自戒していたのだが、そうはいってもこれは限度を超えてい
る。やむをえない処理だと自分に言い聞かせる。
天には己の髪と同じ色に霞む月が茫洋として存在している。大体この城郭の蔵書はすべて博士
の蒐集品なのだから、今更篭ってまで読むほどのものではないと思うのだ。知識を本から得ると
いう方法しか思いつかない博士の蔵書は果たして膨大で、バラエティーに富んでいるが、しかし
それでも博士にしてみれば既に一度目を通した文献ばかりである。
時計を一見するとちょうど日付の変わった時刻だったので、白は早速蔵書室へと向かった。こ
の城郭は広く、一見客には必ず部屋から出ないよう言い含めなければならないのだが、ここでの
暮らしの長い白には自分の庭のようなもので、恐らくは灯りが無くても支障ない。今日は十六夜
なので、月明かりは十分にある。白は燭台を持たずに歩いた。
蔵書室は、部屋というよりも離れと言ったほうが本当は正しい。城郭の端の渡り廊下を渡った
所にある小さな建物がそれである。中にはぎっしりと博士の蒐集した蔵書が詰まっており、水な
ども引いてあるので暫くなら暮らせる寸法だ。白が入り口の大扉に手をかけると、鍵はかかって
おらず、楽に開いた。白は此処にくるのはずいぶんと久しぶりである。普段から蔵書室にいるこ
との多い博士の仕事を妨げることがあってはならないから、白は此処には出来る限り来ないよう
にしていたのだが、それ以上に蔵書室が嫌いだった。四辺をぐるり本に覆い囲まれた部屋は、無
言の圧迫感がある。それは多分時代を経た蔵書の持つ知識の重みで、薄っぺらな白は到底あの雰
囲気に耐えられない。博士があの重たい知識の本の虫のように生きているのが白には信じがたい
。少し緊張して扉を開け放つと、中は真っ暗で何も見えない。窓の緞帳が全て締め切られていて
、室内の空気は重く滞っていた。古書特有の黴の匂いと、埃っぽさ―――――博士はこの香りが
何より好きだと言っていたのを白は思い出した―――――の中で浅く喘いで(肺の中が黴と誇り
で詰まってしまいそうだと思ったのだった)、手探りで窓の緞帳を大きく開け放った。とたんに
舞った埃に、白はむせこみ(どうして博士はこんなところに居られるのか、やはり理解できない
)、窓の外を見上げた。正円に少しだけ足らない月が、甘い蜜色をしている。柔らかい月光が地
面に窓枠の形の影を描いた。白は奥に歩を進める………すると、蔵書室の最奥に、かすかな明か
りが見えた。この城郭に唯一此処にしかないエレキの灯りである。この部屋に火気を持ち込むよ
うなヘマを博士はしない―――――白は、足音を殺して(別に忍ぶ必要はなかったのだけれど、
思わず隠れるような動作を取ってしまったのは、多分博士が余りに静かだったからだ、生きてい
ないみたいに)そっとそちらに近づいた。エレキの手燭の拙い灯りのところに、博士は居た。彼
の周囲をぐるりと囲うように、大量の本が積んである。全て手の届く範囲である。白は、博士、
と声をかけようとして躊躇した―――――博士は僅かだって身動きしない。呼吸の動きさえ見え
ない。まるで生きていないようだ。薄暗くて良く見通せない蔵書室で、彼は本当に生きているの
か、白の咽喉の奥が引き連れたような音を漏らした。
「………博士。」
白は絡まる声を無理やりに出した。博士は、姿勢を崩さない………生きているのか分からない
、博士の背中から、彼の声だけが返ってきた。
「白かい。僕は今忙しい。帰ってくれ」
「博士………、貴方が此処にこもってから、もう一月です。お願いですから、一度、自室で休ん
でください。これ以上は、無理です。お願いですから」
「駄目だよ、まだ僕は帰れない。君だけで帰ってくれ。僕にはすることがあるんだ」
声だけが聞こえて、全く動かない博士の背中を、白はじっと凝視した。動かない、動いてくれ
ない、博士は本当に―――――生きている? 身体が冷たくなり、咽喉が強張ってうまく喋れな
い、白は急く気持ちを抑えて上ずる声で博士に呼びかける。こんなところにいてはいけない、こ
こはとても悪い気がする、ここにいる博士は、本当に生きている?
「博士、無理です、帰ってください、お願いですから、此処は駄目です。此処はいけないから、
帰りましょう、博士、お願いですから」
身体がどんどん冷たくなってゆく気がするのに、動悸は激しくなって、頭の辺りがぼうっとす
る。咽喉が痛くて声が出ない、博士は生きている? もっと早く此処にくれば良かったと思うだ
に心臓が圧迫されたようにぎりりと痛み、煩い程に胸をたたくので、白は手で左胸を押さえた。
もう厭だ、ここに痛くない、博士を此処において置けない、城郭に帰りたい。
「博士!」
白は自分が酷い声を出したと思った。不自然に潰れているし、唐突に大声を出すのははしたな
い。博士の背中は、ようやくゆらりと動いて、白のほうを振り向いた。白は良かった生きていた
、と思い安堵すると同時に、一月ぶりの博士の顔を見てうめきたいような気分になった。博士は
、白の声以上に酷い顔をしていた。やせたというよりもこけたという方が幾分正鵠を射ている顔
は、憔悴しきっていた。隈が出ているし唇に色がない、だがそれ以上に、博士の心中の疲労が顔
に出ているのだと思った。乾いた唇が音もなく開いて、博士は言った。
「白、君は幽霊を信じるかい」
白は眉根を寄せた。幽霊? 普段は論理的な語り方をする博士らしくない、突飛な発言である
。それに、幽霊? 明瞭な物質しか信じない博士が言った科白とは思えない。
「分からないんだよ。もうずっと調べ続けているのに、存在するのか否かがまだ分からないんだ
。幽霊は本当に実在するのかい? 此処に篭ってずっと読んでいるんだ、なのに分からないなん
て、そんな事ってあるだろうか。白、君はどう思う。君は幽霊を信じる?」
最後に、分からないんだ、と呟いてから博士は再びもとの姿勢に戻って押し黙ってしまった。
白にはもう何も言えはしなかった。