この城郭の夜は粘度が高くどこかまとわりつくようで不快だと博士は毎夜思う。ゼラチン質を 思わせる水気のある空気が四肢の周囲に停滞していて、動きが制限されているような気がするの だ。これはどうしてなのだろうか―――恐らくは、灯りがいけないのだと思う。博士の寝室には 窓が無いのだが、それ故昼でも、夜は尚更、闇の密度が非常に高い。だが、この寝具しかない無 表情な部屋の照明といったら、熱量は矢鱈に高い癖に碌な明度をもたらしてはくれない、小さな 洋燈だけである。この間接照明、瀟洒ではあるが、実用性に乏しい。博士自身は出来れば天井か ら赤々と部屋を照らす明瞭な灯りのほうが良いのだが、房事の連れに嫌がられた。以来、博士は 足元の不確かさと、粘着質な闇に心を悩ませる。
 大体、女性達がどうして明瞭な灯りを疎むのか理解に苦しむ。及ぶ事が事だから恥ずかしいと いうのが彼女らの弁だが、灯りを付けようがつけまいが行為の貴賎は変わらない。第一誰に恥じ るのか、彼女らのあられもない痴態を見るのは博士だけだが、その博士自身が共犯者なのだから 、恥じ入る対象にはなるまい。では己に恥じるのか、積極的に狂乱するのは最終的には彼女たち なのだが。どちらにせよ、矛盾している。
 時刻はもう深夜である。もとより人少なの城郭は耳に痛いほどの静寂がのしかかっている。城 下の街明かりも疎らである。みみずくの羽音が聞こえる。枕頭の洋燈がじりじりと鳴く。博士は 簡素だが上質な寝台に伏せっている。瞳は閉じることなく、空中で固定されている。もうすぐこ こに女性が来る。それまでは眠れないし、眠らない。
 ふと、木扉の軋む音が聞こえた。続いて、衣擦れの涼やかな音が聞こえる。女性特有の足音の 軽さ。天蓋の薄絹の向こう側に、たおやかで華奢な女性の影が映った。博士は身を起こし、簡単 に外見を整える。天蓋布はその通気性の為に薄く、光を通しやすいのだが、しかし外の様子が見 えるほど無防備ではない。静かに立つ女性は身動きもせず、静かに佇んでいる。洋燈の灯りが揺 らめき、天蓋布の影はゆらゆらと不安な動きをしている。
 何故だか、厭な気分になった。
 博士は自分と女性の間を隔つ薄絹に手をかけた。このままでは女性の顔が見えない。そのくせ 、影ばかりが暗く灰色に不規則な動きをしていて心許無い。そもそもどうして女性はあそこで立 ち止まっているのか、さっさとここまで来てすることをすれば良いのだ。行為をなすのにどうし て様々な段階が必要だろうか、要は結果さえ同じであるなら、過程は何だって構わない。
 ゆらぁ、ゆらぁ。影は水面に映る月のようだと博士は思う。そして、自分に似つかわしくない 非現実的な妄言を否定するように首を振り、先ほどから握りこんでいた天蓋布をゆっくりと引い た――――――そのとき。
 窓際の緞帳が音も無く揺れて、風も無いのに洋燈がジジッと音を立てて消えた。
 博士は眉をしかめた。とても厭な感じがする。違和感が肌の触れるか触れぬかの所をさ すっているようだ。唯一の光源消えてしまえば真っ暗闇である。厭な感じだ。今夜は少しいつも と様子が違う。閨事の相手も、何か様子がおかしくは無いか。影だけを見せていた華奢な女性は 、いまや影さえも見えず、いるかいないのかさえ覚束ない。空気が粘着質に咽喉に絡まり、声が 出なくなってしまう――――――なんて非科学的な。大気で窒息してしまいそうだなんて、そん な。ゼラチンで出来た夜が体に纏わり付いて、汗が肌に滲む。博士は、無言で女性の居る筈の辺 りを睨む。今日は何かがおかしい。何処かが狂っている。
 女性が、僅かに身動きしたのを、停滞する空気の流動で感じた。
「―――――・・・・・・」
 夜の大気が、震える。女性の微かな、息遣いにも似た声が、ゼリー化した夜を通して肌に直接 伝わる。
 (・・・・・・・・・泣いている?)
 か細い声が、嗚咽を堪える様に・・・・・・・・・。博士は、頭を抱えたくなった。わけがわからない 。何がどうなっているのか分からない。女性の声は、夜の隙間に染み入って酷く良く響く。目が 見えないから、聴覚や触覚ばかりが鋭くなっている。
 半固形の、夜の空気が動いた。何処かから、風が、吹き込んで――――――重い緞帳がつむじ 風にひらめいた――――――音も無く、天蓋布が博士の目の前ではためき、めくれたその隙 間から女性の姿が、見えた。
 その女性は、月色の髪をしていた。月光色の。博士の良く知る、天の恩寵の色。とても優しい 、その色は・・・・・・・・・
 風は、すぐにやんでしまった。天蓋布の紗が元の位置に落ち着くと同時に、つい今まで咽喉元 に張り付いていた不快な空気の塊が取れて、身体が軽くなった。靄のかかった視界が急にクリア になったように意識がはっきりして、博士は目を瞬かせると、若干慌てて洋燈を付けた。ぼんや りとした光が寝室を照らす。―――――女性は、いなくなっていた。いつの間にか、粘着質なゼ ラチン質の夜の空気は何処かに霧散してしまい、にわかに落ち着かない。
 博士は、震える指先で瞼を覆った。今のは、夢ではない。ゆめではない。風が吹き抜けて、女 性が消えた。あの女性、あの女性は。博士は知っている、厭になるほど知っている。華奢なシル エットの不安定なあの女性は、
 「・・・・・・・・・・お母さん。」
 呟きは、あっという間に夜に吸い込まれた。