博士の頭脳は優秀だ。けれども重大な瑕がある。それは、余りに理詰めで物事を考えすぎ る事だ。彼にとって全ての事象は須らく論理と理性で解決されるべきで、だから世界は割り 切れぬ矛盾で出来ていることを彼は知らない。
 白の頭脳は胡乱だ。けれども融通は利く。白は理詰めが嫌いである。世界は矛盾で構成さ れているので、理詰めを押し通すと何処かで論理が破綻する。(そもそも理詰めという思考 法自体が破綻している、何故なら理詰めとて構成物質は矛盾であるのだから。)だから白は 直感と感情と、それに少しの理性で以って物事を判断する。そうやって得た白の結論は、博 士のように幾何学的な美しさは持たないが、喩えるならば曼荼羅のように不可思議な帰結を 保っている、つまりは安定している。
 博士は感情を判断し己の情に区分を付ける事が苦手である。なので、こと心理面に関して は、博士よりも白のほうが一枚上手かもしれない。
 白は白なりに、世間一般における恋や愛の定義を見つけようと努力した。結果、定義とい うところまで昇華はされなかったものの、それなりに整理された結論に達した。
 現在、地球人口はどんどん増加の一途をたどり、狭い惑星の狭い陸地には人間がひしめき あって暮らしている。その数は、じき百億に手が届くという話である。単純に計算して、ざ っと五十億の男女がそれぞれ居ることになる。(話をややこしくしたくないので、この際両 性者等の性別の区分の不明瞭なのは省いた。)しかし人間の一割が同性愛者だというから、 ヘテロの男女は、ざっと四十五億ずつだ。このそれぞれに四十五億もいる男女の全員が運命の 相手を見つけねばならぬとする。すると、一人の人間が全ての異性と一時間ずつ面会をした として、四十五億時間かかる。(運命の相手は一目見ればわかるのだというたわ言を白は聞 きいれない。それに運命の相手とやらは必ずしも一人ではないかもしれないので、やはり全 員と一時間ずつ位は最低でも面談するべきだろうと白は思った。)一日二十四時間のうち、 生命の維持に最低限必要な食事や睡眠を差し引いて、一日につき十四時間を運命の相手探し に費やしたとしても、ざっと九十万年かかる計算となる。馬鹿馬鹿しい事に、運命の相手を 選定している間に、しかもまだまだ初期の段階で、人の人生は尽きてしまうのだ。これでは 仮に見つかったところで恋人同士として心を通わす暇はない。それ以前に生をより充実させ る為の“運命の恋人”探しで生を終えてしまうという大矛盾が発生する。流石にこれは許さ れまい。(ここまでは博士を見習い極めて理詰めの考え方を通した。白の頭は計算で疲れき った。)
 実際に世界中の人々全員が運命の相手探しを始めたら、あっという間に人類は滅亡である 。何せ番(つがい)が見つからないのだから、生殖のしようがない。おそらく一世紀も経つ 頃には絶滅危惧種、もう一世紀も経てば完全に幻の生物となるだろう。しかし、現実には誰 もが適当な番を見つけ、着々と生殖を繰り返し、人類は増え続けているのである。これはつ まり、人類はいちいち運命の相手と劇的な出会いをして恋或いは愛に溺れている訳ではない という事を示している。当たり前だ、そんなことをいちいちしていたらば身も心ももたない し、それ以前に物理的な問題として時間が足りぬのだから、これはもう忍耐力だとか我慢強 さだとか以前の障碍なのだ。
 では何故人間はそう容易く恋に落ち愛に溺れる事が出来るのか。回答は、簡単である。実 は恋愛事をするときに相手が誰かなど問題にならぬのだ。我々は異性を鏡のように用いてそ こに自分の影を映す。そしてその虚像に恋をして愛を囁く。鏡は所詮手段なので、どんなも のでもいい。(欲を言うなら出来るだけ不鮮明に映る鏡がよい。上手い具合に歪んだ鏡の持 ち主が一般にもてるのだろう。)我々は自分自身の姿の影に恋情を募らせているのだ。我々 の恋の相手は、本当は自分自身である。恋愛とは、自己愛なのだ。
 多少乱暴な論だが、白はこの考えを存外気に入っている。案外的を射ているのではないか 。恋も愛も錯覚である。否、本当は自分も相手も世界中全てが錯覚か幻なのかもしれない。 ああなんて素敵な世界なんだろう! 白は思わずうっとりしてしまう。論理などどうでも良 い、出来上がった仮説が美しく心地よいものであれば白は何でも受け入れる。
 だから白は博士に愛を請うのである。同情ではいけない、そんなものは生ぬるすぎる、絶 対に愛でなくては。もう白は何故博士に愛してほしかったのか覚えていない。どうしてこう いう風に愛情だけを強請るようになったのか、もう覚えていない。ただひとつ確かなのは、 この執着だけだ。私は博士を映す鏡になる! 上手い角度に歪んで映せるよう努力しよう 。
 そして白はこっそりと内心に思っている。私は博士を絶対に愛せまい。あんなに素敵な博 士に私の影を見出すことなど不可能だし、第一愛の原理を知ってしまった今ではそんな不毛 な行為に現を抜かす気にはなれない。賢者はいつの世も孤立する。だから白は孤独だし、博 士は孤高だ。博士は、ほんの少し妥協して、己の姿を映す鏡を私一枚にしてくれたら良い、 今はたくさんの女たちに自分の断片を映して必死に覗き込んでいるが、それを白一枚に絞っ た程度で支障は出まい。だって、愛情の相手など本当は誰でもいいのだ! 鏡でありさえす れば、本当は誰でもいい! 安っぽい倫理だが、博士がくれるなら何だって尊くなる。