博士の生活はステレオタイプである。巷にはエレキで動く機械などの文明の利器が溢れている が、博士の城郭には一切その手の物は置かれていない。滅多な事では新しい物は入れず、古い格 式を固持している。博士は新しきを厭い、旧きを愛する。クラシックが彼のモットーである。矢 鱈に時流に迎合する事を博士は好かない。頑なに歴史と伝統を重んじなければ博士は博士を保て ぬのだ。
 博士の日々はまたパンクチュアルでもある。一日は朝日で以って始まり夕日で以って終わる。 彼は自分自身に厳格なルールを課し、それを忠実にこなす事で生活をしている。規則を破る事は しない。そして、出来ればそれを他人にも実行して欲しいと思っている。世界中総てが時計の忠 実な僕であれば良いと博士は願う。彼はマンネリズムを大いに受容する、それは変革を大いに疎 む心情の裏返しでもあるのだ。
 新風も革命も嫌う博士が本当は臆病である事に、誰も気付かぬ。
 だから本来、博士は城郭に一人で暮らしていた。誰かが屋敷にいる事で自分のリズムを崩され るのを恐れたのである。一分一秒だって他人に煩わされるのは御免だし、無益な事で心を乱され るのは馬鹿らしい―――そう自分に言い訳をして一族代々に受け継がれてきたこの城郭に一人閉 じこもっていたのである。博士の記憶では、この家に以前誰かがいたのは、白を除けばたった一 人、彼の母親のみである。この街には珍しい月光色のブロンドの女性だった。その母とて物心つ かぬうちに出奔してしまったのだから、幾ら博士の生まれる前に一族の住居であったとはいえ、 この城郭に博士以外の姿が認められたのは近年では白がほとんど唯一である。博士は白を自分の 住処へ連れ込んだ日を良く覚えている。
 考えてみればもう十年以上も前の話になるのかもしれない。その折博士はまだ随分若く青年期 を脱したばかりであったし、白(そのときはまだこの名ではなかったが)に至ってはまだ少女時 代の盛りであった。今はもうほとんど己の部屋から出ることさえ稀だが、その頃は下界の街へ降 りてあちこちを逍遥することもあった。灰色の粘着質な水を流し込んで固めたようなぼんやりと した街は卑俗で猥雑で、偏屈だった博士が惑わされる事は無かったが年若かった為に目新しく面 白かった。(そうだ、その頃はまだ目新しさを楽しむ余裕もあったのだ。若かったから。)そし てそういう時に、娼婦館の呼び込みをしていた白を拾ったのである。
 目に付いた理由は実に単純で、白の髪色が透けるような月光色をしていたからだった。この街 の人々は皆黒色か灰色か白色しか頭上に纏わぬのに、彼女一人だけが月の神に愛されたような美 しい絹糸を纏っていた。そこに母親の影を見出さなかったと言えば嘘になる。博士が珍しく街人 に声をかける気になったのは、やはりその月影に導かれてのことであっただろう。
 ありがちなことだが、娼館は汚濁の極みであった。毒々しい朱色の瓦に、目を引く下品な落書 き、そういった外観の醜悪さ以上に、そこに集まる人間が穢れていた。女を金で買う金満家の低 俗な視線やあからさまな媚を売る老練の娼妓は目にするだけで嫌悪感を呼び起こすもので、若い 博士はそんな人々を心より軽蔑した。(まるで誘蛾灯にたかる蝿か何かだと思ったものだ。)そ の頃は人間の機微など博士の理解の範疇外で、(今もまだ分からない、人間は難解なのだ。)そ れ故人間を単純に憎むなどという浅薄な行為が出来たのだろうと今になれば思う。今の博士は人 間の複雑さを知っているので彼らを軽蔑することが出来なくなってしまった。とにかく目に映る もの全てが濁った色彩を纏い悪臭を放つ中で、白の月色の絹糸はひどく眩しかった。(博士は思 わず目を瞬かせたほどだ。)まるでセイレーンに魅せられた水夫のようにふらふらと吸い寄せら れ、気がつくと白の目の前に立っていた。そうして言ったのだ。「君は僕の下にくるといい」 白は不思議に澄んだ目で博士を見つめた。俗世を超越した目だと博士は思った。この少女にこの 街は似合わぬ、彼女はこの汚濁に住まうに相応しくない、屑のような輩と共に居させるにはあま りに惜しい、それならばいっそ博士の館で暮らせばいいのだ。
「名前というのはとても重要だ。名は体を表す。君に名はあるか? いいやこんな娼館で与えら れた名など碌なものではあるまい。下等な名は品性を貶める。僕が君に新しい名を与えてやろう 。君のその金糸の髪にそぐう美しい名を―――」
 白は何も言わなかった。ただ綺麗な眼で博士に尋ねるような視線を送っただけだった。だから 博士は、白の名を口にした。
「………白。白いと書いてハク。君のその目と、髪と、そしてこれからの生活にぴったりだ。僕 とおいで。君の名は白だ」

今思い起こしても何故自分があんな突飛なことを口に出したのか分からないし、また何故白が大 人しく自分の下で暮らすようになったのかも分からない。その後娼館の少女は「白」という名を 得て博士の城郭で生活するようになったのだった。結局今も博士は白の娼妓館時代の旧名を知ら ない。興味もない。
灰をかぶったように色彩に乏しい街に出て行ったのは、思えばあれが最後となった。白が屋敷に 来て以来、博士は他出を嫌うようになった。どうしてかといえば―――
(白の月光色の髪色を目にする度に、博士はたまらない気分になる。博士の記憶中に母の姿はな い。だからといって白に母を重ねるのは馬鹿げた事だと博士も重々承知している。だが、)
どうしてかといえば、どうしてだろうか。何故だか白がいればもうそれで街に行く必要が無くな ったのだ。多分、この城郭には母が(違う、白が)いるから、それでもうこの城郭は一杯になっ てしまうから―――

 博士は、今ぼんやりと後悔している。
 あの時、博士が白に名を与えたとき、どうして「ハク」ではなく、「ハハ」という名を与えな かったのかと。(名は存在を縛る、名は存在の定義を決める、名前がその存在の性格を決めるの だ、母という名を与えればもしかしたら、白は本当に母になってくれたかもしれなかった。)
 博士は、不明瞭な後悔を繰り返す。何度も何度も、母なる海が波となって砂浜に打ち寄せるよ うに。
 不明瞭な後悔を繰り返す。