博士は住居を丘の上の城郭に定めていた。石造りの堅固な窓枠からは、背の低い灰色の街と、そ
の向こうには沈鬱な群青色の海が見渡せた。白はこの景色があまり好きでは無い。何故なら、あの
灰色の陰気な街には、数多くの女が住んでいる。博士の閨にみちびかれるであろう女が。
空はぺたりとした青灰色で凹凸が無く、遠近感が狂う。地上の街は灰色の水を流し込んだようで
ある。海には波も無く、死んだような色で静まり返っている。まるで一枚の絵画のような世界であ
ると白は思う、但し形式はシュールレアリズムであろう。城郭を含み、この辺りではもう世界の呼
吸は感じられない。
白は博士を思う。朝起きては今日の朝食は彼と同じ卓を囲めるだろうかと思い、昼太陽が南天す
る頃には博士の書斎の緞帳がしっかりと下りている事を確認し、夜薄い白刃のような月が冴え冴え
と輝く時には彼が良い夢を見れるようにと願い、そして今も白は博士のことを思っている。こんな
にも博士の事しか考えていないのに、どうして博士は私を愛してはくれないのか。
曇天は白に今の時刻を知らせない。彼は今何をしているだろうか。恐らくはいつもの様に暗い緞
帳のうちで洋燈(らんぷ)を灯して分厚い書物に沈み込んでいるのだろう。それともガラスの温室
で水気のない仙人掌(さぼてん)の棘を愛でているのだろうか。
或いは硬い羊皮紙に洋墨(いんく)で白の知らぬ研究成果を記しているのかも知れない。
いずれにせよ、今日も博士はあの
生気のない顔で亡霊のように力無く動作している。………今晩、彼は何をするのだろう。今夜は多
分月齢の満ちる満月だ。満月の夜には彼はいつも閨に女を引き入れる。薄い紗の天蓋布の向こうで肉の
絡み合うのを白は以前目撃した。今晩も彼は肉の行為に溺れるつもりなのだろうか、白には一度と
して与えられた事のないあの行為に。
白はあれがどういう意味を持つのか知らない。単なる生殖行為では無いと物の書物で目にしたが
、疑わしいと思っている。種の保存本能が雄をあの行為に駆り立てるのだと書いてあったが、白の
見る限りあれを望み悦んでいるのは雌の側だ。白は苛々と爪を噛む……肝心な時に書物はいつも役
に立たないのだ、書物はけして博士の行為の意味を教えてはくれない。ある本はこう教えていた―――『
あれ』は愛情の昇華行為であり、互いに好意を抱く二者の間で交わされる情である。しかし彼に関
してこの説は当てはまらない。彼はまるで何かの儀式のように閨に女を引き込むが、その女はいつ
も違う女である。一度として同じ女が来た事は無い。「互いに好意を抱く二者」はそう容易くパー
トナーを違えるものではないだろう。愛情と名付けた感情はそれほど割り切られるべきではないと
白は知っている。ある感情を愛情と名付けたなら、その感情は粘着質に相手を求め、常に己のうち
の物足りなさを埋める事を要求しだすのだから、それはまるで白が博士を求めるのと丁度同じよう
に。白が知る限り、愛情は束縛に通じる。少なくとも容易く束縛へと変化する。
別の本ではこう教えていた―――『あれ』は至上の快楽を引き出す手段である。これも彼には当
てはまらないように思う。彼はあの好意をする前にいつもその遣る瀬無い表情に悲哀のような苦痛
のような、何かとても割り切れない感じのする色を浮かべる。快楽の手段を求める人間は、あんな
表情を浮かべない。快楽に溺れた人間は一様にだらしない笑みを垂れ流し、いじましく行為を求め
る物だ。彼はそんな風な不愉快で汚らしい人間では無い。
博士は愛情を物質の付与・享受でしか量れない。結局彼には他人の表情や動作、言動から相手の
持ちを量る能力に欠けているのだろう。一度彼はこう言っていた。「他人の感情はあやふやで不明
瞭だ。どうにもよく分からない。」博士は相手の感情を見極めようとするからいけないのだと白は
思う。感情は総てあらゆる喜怒哀楽の境界線上にあり、はっきりと明確に表現できる物では無い、
それを彼はむりやり「嬉しい」「悲しい」という領域内に納めて理解しようとするからいけないの
だ。なべて、生きた感情とは「嬉しい」や「悲しい」や、あらゆる領域に跨って存在するものなの
だから、どれか一つだけから見ることは出来ないのだ。博士は俊英だが、そういう簡単なところが
把握できていない。
それで博士は、意思疎通を簡易に割り切ってしまう事にしたのだろう。「
物を与えてくれる人は僕に好意のある人で、何も与えてくれない人は僕を嫌悪する人だ。」だから
「僕も気に入った人にプレゼントを贈る。気に入らない人には何も贈らない。」
ならば博士はあの肉の行為をどのように捕えているのだろうか。とても悲しそうな表情で女に快
楽を与える彼は、果たして女達がどのように彼を見ているのか知っているのだろうか。白は毎月違
う女がこの城郭に出入りするのを陰から見ていたが、女に関して言えば皆博士に生々しい好意を持
っているようである。(女達は博士に身体を与えた。博士は本当に女達の好意に気付いているのか
。)(いや、恐らく気付いていない。きっと博士は女達の生々しい好心を知らない。何故なら、)
白は毎月の『あれ』に関して、もう一つの事実を知っていた。これを思う時、白はいつも暗澹た
る気分になる。女達への嫉妬へ悩まされる。博士は、
博士は行為の後に必ず女を寝台の上で殺してしまう。
(きっと博士は女達の劣情を知らない。何故なら、)(博士は女達を殺してしまうから!)
白は見てしまったのだ。薄絹の天蓋布の向こうで、明らかに快楽以外の苦痛に喘ぐ女の細い首に、
博士が指を絡めているところを!(博士は好意ある女達にはきっとそんな事をしない。何故ならそ
れは女達から生命を奪う行為だからだ。『与える』どころか『奪う』ことなど性根の優しい彼には
出来ないはずなのに!)徐々に力の篭る指先に、女の尖った頤(おとがい)はきつく反らされてい
た。(街の女達はどうしてそれでも博士の元に通うのか?)(白には分からない閨の出来事とは?
博士はどうして『あれ』を続けるのか?)
白は女達への嫉妬を感じる。寝台の上、絶頂の最中に博士の繊手で甘美な苦痛を与えられた彼女
達に、堪えがたい激情を感じる。痛みは容易く快楽に転ずるものだから、博士の指先の与える苦痛
はさぞ気持ちの良い物だっただろう! はしたないほどの快楽に溺れた事だろう! 肉体の欲求を
満たされる行為は愛情に似て女達を快楽に縛りつけたことだろう、そして女達はその束縛にさえ快楽
を見出しただろう、『あれ』はもしかすれば博士の絶無の愛情表現だったのではないか! 限界量
での快楽による束縛は、愛情に通じて、博士の一種の愛情表現だったのではないか! だとすれば
それは白の最も欲するところのものだのに!
白は思う。私はあの女達になりたい。殺されても良いから、博士の愛情を一身に受けたい。相手
を選ばぬ博士の愛情の零れる受け皿に、私が選ばれたい。その結果皿は割れるだろうが、それでも
良い。それでも良いのに。
本当に束縛を欲しているのは、いつも白なのだ。