「貴方はどうしても私を愛してはくれないのですか。私は貴方に一番近いところにいて、貴方を誰 より一番思っているのに、貴方はけして私を愛してはくれないのですか。」
 白(はく)は言った。この言葉には嘘は無い。城外から博士の下にわざわざやってこなければな らない他の大勢の女とは違い、白は博士の住む城郭の片隅に起居していたし、白の一日はその大半 が博士について考える事に費やされた。一番近いところにいて、誰より一番思っているというのは 事実だったのだ。ただ、白の博士に対する感情はこの言葉が聞くものに与えるであろうニュアンス とは別の性質のものであった。即ち、白はけして博士を愛してはいない。
「では逆に僕は君に問おう。どうして君は僕を愛してくれないんだい。僕は君に、自分に最も近い 住居を与え、充分すぎるほどの情愛と庇護を施した。なのにどうして君は僕の善行に応えてくれな いんだい。」
 博士はこんな風に言う。実際、博士の白への処遇は他の大勢の女とは格別のものだった。博士は 白に暖かい家と美味しい食事と安心できる睡眠を与えた。博士にしてみれば、白は当然自 分を愛してくれるはずだったのだ。何故なら、今まで博士の愛情を乞うて得られぬ者 はいても、博士の施しを得てそれに縋らぬ者はいなかったのだから。ただ、博士は気付かなかった のだ―――白が欲しい物は物質ではなかった。そして博士は愛情を物質で量る事しか出来なかった 。
 白は知っている。博士は誰をも愛してはいない。愛と言う言葉など彼に於いては白々しい。彼は 、物質の付与・享受でしか人の心情を推し量る事が出来ない。博士は、己の事を好く女は皆その 証の物を自分に与えると思い込んでいたし、 彼も気に入った者には物質的援助を惜しまなかった。そして彼にとって人の心とは自分を好いて くれるか、或いは好いてくれないかの二者択一だった。これは単純に過ぎるようでいて、案外的を 射てはいる。が、白の様にどちらにも属さない者とているのだと言う事を考慮していない点ではや はり彼の判断能力は片手落ちだ。今まではそれでも良かったのだ―――彼のもとには好意を寄せる 者か蛇蠍の如く嫌う者しかいなかったのだから、大雑把な分類だけでも事は足りていた、しかしそ こに白が出現した、白はどちらにも属さない、それでいて博士に愛情を注ぐ事を所望する。博士は 混乱し、掻き乱された。
 白と接していると、時に博士は狂おしい感情の奔流に悩まされる。思い通りに行かぬ憤りや不満 、困惑、そして白への好意や欲望、そういったものが総てごちゃ混ぜになって彼の胸に去来し、彼 の平静を乱した。嘗て彼は特定の一個人に対して格別の感情を抱いた事は無い。(博士は誰かを気 に入る事はあっても愛する事は無かった。本人がそれを自覚していたかは別として。) 他人は他人であり 、そこに個人は存在しなかった。が、白だけは彼女の個性を主張して特別の愛情を乞い、博士の胸 中に割り込んで くる。それは博士にとって未知の体験で、興味深いと同時に、不快でもあった。
「悪いけれど、僕は君に対する感情に名前を付けかねているよ。そして、その名付けは永遠に終りそうに 無い。僕は君の事を面白く思うし好意だって持っているが、不躾に僕の内部に踏み込んでくるのに は閉口している。君の事は好きだが、同時に僕を掻き乱すから嫌いだ。」
 最早白に対する博士の感情は複雑になりすぎていて、彼の手には負えなくなっていた。交互に やって来 る白への愛しさと疎ましさは、博士が白への評価を定めるのを悉く阻害した。結果、博士は白への 破格の物質的援助を続けながらも彼女との対面に気乗りしないという矛盾した状況を生み出している。
 白は、博士の胸のうちを少なからず察していた。一日中博士について考えているのだから当然の 事だったのかも知れない。それで白は精一杯哀しそうな顔をしてみせた。
 白にしてみれば、難しい理屈はいらなかった。博士は心裡の感情に名前をつけようと四苦八苦し ているが、白から見れば名づけなど如何でも良かった。寧ろ不都合だったと言っても良い。白が欲 しいのは圧倒的な質量の愛情だった。いや、それが愛情ではなくとも良い、勘違いでも良い、まる で洪水の折に河から水が溢れ出して近在の村々を押し流してしまうように、誰かの強い感情に押し 流されてしまいたかっただけだったのだ。(白はその感情を仮に『愛情』と名付けた。) 白は、自分がそこにいるという確信が欲しかった。束縛 的な感情で自分の居場所を確認させて欲しかっただけだった。それには、別に愛でなくとも良かっ たのに、博士は感情の正体を突き止めようとするから、白は満たされない。
 せめてもの反撃に、白は言う。
「城の外の女は容易く自分の閨に導いてやる癖に、貴方は私一人のお願いは聞いてはくれないので すね」
博士は、顔をしかめて目を逸らした。気まずい空気が流れた。白は思う、私が欲しいのはそういう 激しさなのに、貴方は何処の者とも知れぬ馬の骨にはいとも簡単にその激しさを与えるのに、私に は絶対に与えてくれない。それは残酷だ。
 感情の境目は曖昧なのだと白は思っている。嬉しいから嬉しい、悲しいから悲しいと言うのでは なく、ある感情に嬉しいと言う名前を付ければ嬉しくなり、悲しいという名前を付ければ悲しくな るのだ。だから情はそう簡単に割り切れる物では無い。胸の内の曖昧な感情の名を見定めようとする 博士の行為は白から見れば愚昧そのものであった 。胸中の感情の正体は探るものではなく、名づける物だ。愛しいと名付ければ愛しくなる。思いを口に 出せばより確かな物となる。だから博士は、縦令(たとい)嘘でも白を大事に思うと言ってくれれ ば良かったのだ。そうすれば博士の内の感情は『愛情』へと変化しただろう。ならば 白はそれが偽証だったとしてもきっと納得した。
 部屋の空気はいよいよ重苦しくなっていた。先に耐え切れなくなったのは博士で、くるりと踵を 返し足音を起てて出て行ってしまった。何度もこんなやり取りを繰り返し、その度に博士の訪れは 遠のいてゆく。それを知っていながらも白は問わずにいられない。
 窓のは宵闇が拡がっていて豊かな黒天には砂を撒いたような白い点が控えめに存在していた。月 は無い。城の中と外ではどちらがより暗いのか、白は戯れにそんな風に考えた。