今日でこの観光旅行も終わりだから、と彼は市街の外れにある小さな教会へと私を連れて きてくれた。曰く、現在この教会に彼は務めていて、毎日此処の十字架に向かって祈りを 捧げているのだという。そこはとても小さな教会だった。中心市街からは程遠い、郊外に ある小さな教会。周囲には、此処が先ほどまで観光していた街と同じ国なのかと信じられ ないような程緑が多い。内部正面の祭壇の上には鈍い金色のキリスト受難像が置かれてあ る。どうしてだか見たことのあるような風景に首をかしげ、やがて気付いた。ここは、彼 の弟の務めていた教会に酷似している。そうだ、あの祭壇の前で彼の弟はひざまずき祈り を捧げていた、窓からはちょうどこんな風に緑が覗いていた、私と彼が扉を開けると暗い 教会内に一条の光が差し込むのをよく見ていた、見慣れた風景、一枚の絵画のような美し い景色、荘厳で優しい教会の絵、とてもよく似ている、否そっくりだ、      祭壇 の正面はかの弟の立ち位置、あそこで彼は倒れていた、キリストに押し潰されていた、そ う丁度あそこにあるキリスト像にそっくりな、鈍い色のキリストに押しつぶれて、彼の腕 は血を流して白く白く、血を流して、
 私は彼を見た。盲目の彼は静かに私の背後に佇んでいた。ここに務めている? こんな に、弟の死に場所にそっくりなこの場所に? 盲目の表情は読み取れない。眼は心の窓と 言う、盲目ゆえに眼に表情の無い彼は、私に心を読み取らせることを許さない。
 石で出来た床が冷たい。表情の見えぬ彼が冷たい。彼が口を開いた。
「僕はこの教会に生涯を捧げるつもりだよ。もう二度と俗世の生活に交わることはしない つもりだ。弟の死に場所にそっくりなこの教会で僕は毎日祈りを捧げる。弟を潰したキリストに毎日祈りを捧 げる。僕はもう二度とこの教会を出てゆきはしない。ここを離れることは無い」
 あの祭壇の前、あそこで弟は死んだのだ。弟が死んだ場所に毎日兄はひざまずき、祈り を捧げ ――――― そういえば、兄は、何故盲目になったんだっただろうか? あの日 彼の弟は亡くなった、そして同じ日に彼も盲目になったはずだ、次に会った時にはもう彼は盲目に なっていた、それは何故? 思い出せない、思い出せない、どうしてだったろう、彼が盲 目になるような事件が、何か、あったはず ―――――
 あの日、いつものように私は兄と一緒にあの教会に扉を開けた、するといつものように 祭壇の前に弟がいた、私たちが呼びかけると彼は振り向いてはにかんだ、そして祭壇に背 を向け立ち上がった、すると壇上のキリストがぐらりと揺れて……… 果たして、本当に 、そうだったか? キリストは何故揺れたんだろう、あのときに限って、何故?
「僕はずっと何処か釈然としなかったんだ。君は、僕が聖職に就くと告げた時酷い顔をし ていたね、そして何も言わずに引っ越してしまった。僕は、君が引っ越してしまったのは 僕らの冒した罪の重さに耐え切れなかったから、そして共犯者であり被害者の兄である僕 の顔を見たくないからだと思っていたんだけれど、本当は違ったんだね。ずっとそのこと に気付かなかったんだ。今回、君をこの街に呼ばなければ一生気付かなかったかもしれな い」
 盲目の彼は、けれど私のいるほうを違うことなく、澄んだ眼で見つめてくる。僕らの冒 した罪? ぼくらのおかした つみ ?
「君は、あの日の記憶を、本当の記憶を覚えていないんだね。忘れてしまったんだ、そう だろう? 君が認めたくないなら放って置いても良いと思っていたんだけれど、このまま別れて二 度と再び会うことなく生きていってもいいと思っていたんだけれど、やはりそれは良くな いことだと僕は思う。君はもう一度知らなければいけないよ、僕らは罪を冒した、それ は消えることの無い事実だ、君は認めなければならない。君は本当は後悔したんだろう?  死ぬほど後悔して、だから、記憶を改竄してしまったんだろう? でも、忘れることは 害悪だよ」
 無知も、忘却も、立派な害悪だ。そう彼は言った。彼の言葉に、記憶の底が混乱する。 あの日、あの日、ぐらりと揺れたキリスト像、それに押し潰された彼の弟、鈍い金属の像 の下からとろりと流れ出した真っ赤な血 ――――― 本当に?
「思い出さないといけない。僕らの行為は罪悪だった、そして君の愚かな忘却も罪悪だ、君は贖罪を しないまま、次々と罪を上塗りしている。思い出して欲しい、あの日起きたこと、あれは 、本当は、  僕たちが弟を殺したんだよ」