「あの日起きたこと、あれは、本当は、  僕たちが弟を殺したんだよ」


* * * * *


 ちょっとした悪戯のつもりだった。

 いつもなら、私と兄は二人で連れ立って弟を教会まで迎えに行った。けれど、その日に限っ て私たちは直接教会に行かなかった。兄は言った、「ちょっとばかり、あいつで遊んでやろ う」。二人で、弟をからかおう、そう言って、彼は私に小さな悪事を呼びかけた。曰く、彼 は先回りして教会に行き、そっと祭壇の後ろに隠れておく、そこへ私がいつものように教会 の扉を開ける、弟はきっと私のほうを振り向くだろうから、その時兄が祭壇から飛び出して 声を上げて、弟を驚かせてやろう。
 それは小さな悪事だった。どうしてその日に限って彼があんなことを言い出したのかは分か らない、けれども、彼の計画がただの悪戯心から出たわけではないという事を私はうっすら 承知していた。あの兄弟は無条件で仲が良かったわけではない。やんちゃな兄は、物静かで 敬虔な弟を、どこかで嫌っていた。それも大っぴらに疎むのではなく、優しい笑顔の影で顰 めた眉を隠すような、そんなやり方で。弟も、兄と同じ心を持っているように見えた。何故な ら、弟は、私とは手を繋いでも兄とはけして触れ合おうとしなかったから。兄弟がどうして 互いに厭いあっていたのか、それは多分些細な性情の違いや、価値観の落差、そういう小さ な理由だったのだと思う。何より決定的な相違は、信仰心だった。弟は信心深く、兄は即物 的な現代っ子で、その違いはあらゆる場面で瑣末な齟齬を生み出していた。一つ一つの食い 違いは些細な、どうということもないものだったが、それが積もれば互いに面白くないこと も多かったのだろう。二人はけして、裏表無く仲が良かったのではなかった。私はそういう 、兄弟の互いへの微妙な嫌悪の念を感じ取っていたから、兄が殊更子供じみた悪戯を提案し た理由がなんとなく分かる気がした。例え実害は無くとも、疎ましく思う相手に虚を突かれ るのはいい気分ではあるまい。ましてその幼稚なやり口は、苛立ちを誘うと共に、うまく行 けば弟の自尊心を揺るがせることができるかもしれない。
 私は、兄の提案に乗った。兄のこすっからい打算を何となしに感じ取った上で、その悪戯に 加担することを了承した。それが何故なのかといわれても、私にも説明できない。その時、 兄の馬鹿げた悪戯に気分が乗ったからというのが一番大きな理由だったと思う。ただ、私も あの弟に良い感情ばかりを抱いていたわけではなかった。それは、兄とこそこそ張り合った りして、聖職者の癖に何処と無く俗っぽい所が気に入らなかったというのもあるし、何とな く兄を馬鹿にしている仕草から彼の隠匿された優越感が伺えたというのもある。兄は比較的 はっきりと自分の利己的な部分を面に押し出すが、弟はそれを聖職者の衣の下に押し隠して いるようで、その狡さが私には目に余った。兄ほど明確に悪意を抱いてはいなかったが、私 にも彼が少しばかり痛い目を見ればいいのだ、という心持が無かったとはとても言えない 。
 そうして私と兄は深く考えることもせずに、その小さな悪意を実行した。兄は先回りして教 会に行き、私はゆっくりとした足取りで弟の祈る教会へと向かった。私は考えていなかった のだ、その悪戯を受けた弟が一体どんな気持ちになるかなど。何も考えていなかった、ただ なんとなしに鬱屈した気分を憂さ晴らしするような、容易い気持ちで加担した。その時、弟 についていま少し深慮を巡らすべきだったのだ。僧侶の彼は、物事を楽観的に考え、頭より 身体が先に動く性質の兄を嫌悪していた。子供じみている分無邪気な兄を厭悪していた。け れども同時に、そういう兄を憧憬してもいた。シンプルな性格で分かりやすい兄は、実際弟 よりもずっと人受けが良く、友人も多かった。比べて、弟は気難しく大人びており、感情が 表面に出にくい分取っ付きにくく思われていて、利口者ではあったが親しみにくい人柄だっ た。そういう弟が、兄に抱いたのは羨望と嫌怨という相反する感情で、矛盾を包含している だけに、兄への思いは、兄が弟に抱くそれ以上に複雑で脆かった。私は考えていなかった、 弟が果たして兄のひたすら幼稚な悪意をどう受け取るかなど。否、考えないよ うにしていたのかもしれない。何故なら、私も弟を好いてはいなかったから。
 振り返るに、もう一つ分かることがある。私も兄も、あの弟を密かに疎んじていた、その訳 が、今なら漠然と理解できる。私たちは、怖かったのだ。聖職に就き、神に仕える弟が、理 解できなかったのだ。神やキリストなどと、見えないものを信奉して日々祈りを捧げる弟が 畏ろしかったのだ。分からないものは怖い、だから必死で弟を私たちの日常から排斥しよう としていたのだ。

 あの日、教会はいつもどおりに平穏で、私は大した考えもなしに空っぽの頭で教会の重い扉 を押した。心は浮き立って、これから起こるだろう一連の茶番劇に期待するように鼓動が高 鳴っていた。重い木扉は押し開けると軋んだ音を立てて、それに気付いた僧侶姿の弟がこちらを 振り向いた。そして、そこに私一人しかいないのを見て、不審げに顔を曇らせた。弟は気付 いていなかった、後ろで兄が息を殺して祭壇から姿を現したことを。そうして、そのまま、 兄は足音をしのばせ、気配に気付かない弟の背後に立ち、わぁ、と声を上げて思い切り、背中を 突き飛ばしたのだ。上手くいった! 私は内心で歓声を上げた。
 突き飛ばされ地面に転がった弟は、立ち上がろうと床に手を突いた体勢でしばし停止し、ゆっくりと、振 り返った。ゆっくりと、嵐の前 の静けさで、振り返り、そのまま兄の方をねめつけた。私は扉口に立ったままだったので、 その表情は見えなかった。けれども兄の顔だけは見ることが出来た、兄は、ぽかんと口を開 けて弟を見ていた。空気が、暫時、恐ろしく冷ややかに凍りついた。その時ようやく、私と 兄は、悪戯が何か予想外の結果を生み出していることに気付いたのだった、弟の反応がおか しい。
 沈黙はほんの一瞬だった、そうして次の瞬間には、声にならない悲鳴をあげて弟は兄に掴み かかりその身体に馬乗りになっていた、見たことが無いほど機敏な動作で弟は兄を押し倒し ていた、言葉として認識できない叫びをあげながら弟は兄組み敷き、滅茶苦茶に兄の顔を打 ちたたいた、そうして、その手で兄の首をぎゅっと、
 私の場所からは弟の顔は見えなかった、ただ兄の顔だけがうかがえた、兄はぽかんと口を開 けたまま、馬鹿みたいに弟を眺めていた。私は、現状を認識できなかった、声も出なかった し指も動かなかった、まして二人を引き剥がすことなど出来もしなかった、ただ呆然と立ち すくんで僧侶服の彼の狂態を見つめているだけだった。弟は意味のある言葉を言いはしなか った、ただただ獣のような喚き声を撒き散らして、兄の首を力いっぱい絞めていた。物凄い 力だった、その手は筋肉の限界に痙攣していた、兄は半開きの口をそのままに目に見えて 顔色を悪くしていく、私は金縛りみたいに一歩も動けない、ただただ弟の叫び声だけが教 会に反響して、わんわんと耳鳴りのように響いていて、
 すると、信じられないことが起きたのだ。僧侶の弟の声に反応するように、祭壇の上のキリ スト像にびきびきとヒビが入った。誰も手を触れていないのに、びきびき、びきびきとキリス ト像はヒビを入れてゆき、そうしてそのまま砕け散ったのだ。誰も手を触 れなかった、誰も何もしなかったのに、鈍い金銀の像は、大小の欠片となり砕けてしまった のだ。そうして、その破片は、あろう事か、狂乱の弟と、彼に圧し掛かられている兄の顔と に、降り注いだのだ。
 私はその様をすべて見ていた、余さず全てを見つめていた、大きな塊は弟に、細かい破片は 兄の顔面に、キリスト像の破片は降り注いだ。窓からの光に反射して、その破片はきら きらと硬質な光を帯びていた。何の前触れも無く突然砕けたキリスト像は、二人の上に降り 注いだ。最も大きな破片は弟の身体の上に、そして細かい破片は兄の顔、特にその両目に。 全てはあ っという間の出来事だった。われに返った私が二人に駆け寄った時には既に弟は大きな破片 に背部を押し潰されて事切れてい て、兄も顔面を押さえて身悶えていた。辺りには、鈍い光を帯びた大小の破片が散らばって いて神々しくすらあった。それらは全てキリストの破片だったのだ。


* * * * *


 思い出した。

「思い出してくれた? そうだよ、僕らが弟を殺したんだ、そうしてあの時から僕の眼は何 も映さなくなったんだ」

 そうだ思い出した、あの時キリスト像は砕けたのだ。そうして、まるで二人を罰するかのよ うに、破片を二人に降り散らしたのだ。あれは罰だった、神からの罰だった。信仰を忘れた 兄弟への罰、愛を忘れた兄弟への罰、神聖な教会で凶行にいたった兄弟への罰。沢山の罪に 見合うだけの罰を、キリストはその身で持って兄弟に報いた。

「僕たちの行為は罪だった、だから僕は今こうして毎日贖罪をしている。けれど君は、何のあ がないもしないばかりか、罪の 上に更に忘却の罪を上塗りしている、だから僕は伝えたかったんだ、君の罪を思い出せって 。君にもいずれ罰が下るから、それ以上罪を重ねる前に、贖罪しなければいけない」

 どうして忘れてしまっていたのだろう。あの後、私は死ぬほど後悔した、そうして、悔悟の 末に、全てを忘れてしまった。今の今まで、全てを記憶の奥底に封じ込めて、何も無かった ことにしていた。

「私は、………私は、あれから後悔した、懺悔も告解も改悛もした、もう十分に罪は償っ」

「償えるわけが無いだろう。弟の罰は死だった、僕の罰は失明だった、けれど君の罰は? あ がないはたったそれだけ?  そんな訳が無い、そんな筈が無い! 僕らは、罪を冒したんだ、僕らが、罪 を冒したんだ! 僕と、君が!」

 盲目の彼は半ば叫ぶようだった。教会に彼の声がこだまする、まるであの日の弟の悲鳴のよ うに。

「僕は忘れなかったよ、あれから一日だってあの日の出来事を忘れたことは無い。君は確か に直接には何もしなかった、君はいつもどおりに扉を開けて、それから僕たちをただ見てい るだけだった、君は何もしなかった! でも、君は僕の提案に賛同したんだよ、そして 消極的にだが協力したんだ。そして、今日の今日までその罪を忘れて、平安に生きていたん だ!」

 彼の剣幕が恐ろしく、思わず後ずさった。だが私が後退したぶんだけ彼は距離をつめてくる 、いつのまにか私は祭壇のまん前にまで来てしまっていた。あの日、二人がいた、その場所 にまで。

「無知は罪だ、忘却も罪だ、君の罪は重い、そして、罰もきっと重い!」

 その時、私の後ろで、像のひび割れるような、軋んだ音がした。振り向いたそこで、

 キリスト像が、

 砕けた。

/ end.