それにしてもキリスト教施設を巡って思うのは、西洋人の肉体、特に遺体への思
いの強さである。私は彼に連れられて代表的な宗教建築は全て見たと思うのだが
、権威ある教会では聖人や法王の遺体を一般人に公開しているし、古代帝国時代
の遺跡を教会に改築したという変わり種の建築には、画家のラファエロの棺をわ
ざわざ掘り返して硝子越しに鑑賞できるようになっていた。どれも日本では考え
られぬ扱いである。死体への愛慕の念の強さが伺える。
また実際の遺骸に限らずに見れば、キリスト教絵画は死体の宝庫である。神が味
方につき勝利した乱や異教徒を排斥した乱など、絵画の隅々まで死体に満ちた絵
ばかりだ。日本にも地獄絵を筆頭に死者を描いた絵はあるが、キリスト教絵画は
それらとは全く趣が異なる。地獄絵はもともと地獄の責め苦のおぞましさを世に
伝え人々の放蕩や執着を戒める目的の物であるから、死体はいくぶん誇張されて
描かれ、時にユーモアすら伴う事もある。しかし西洋絵画の死体は、なんとい
うのだろうか、非常に淡々としている。ありのままの死体をそのまま描いていて
、そのリアルさが私などは生理的に受け付けない。
また、乱暴なことを言うようだが、人口に膾炙している十字架に磔にされた
キリスト図なども言ってみれば死体である。キリスト教徒は究極的には死体を信
仰している、というのはあまりな言いようだが。
私見だが、この種の違いは恐らく東西の死生観の違いにあるのだろう。東では、
大雑把に言えば肉体は世界に還元され魂は巡り巡るとされる。対して西では、
一個人はあくまでその人物自身であり、魂も肉体もリサイクルされない。その代わり、最後の
審判の折に墓からよみがえる事ができるとされる。つまり、東では肉体は世界の
物、言わば借り物とされているのだが、西では
肉体は死後も完全に己の物なのである。最後の審判でさばかれる時にも己の肉体
で断罪に臨むのだから、愛着も湧く。聖人の遺体は聖遺物となり、仇敵の遺体は
恨みを散ずる格好の対象となる。
余談になるが、この国で肉体美の概念が極度に発達したのも、当然の成り行きと
言えよう。全体に肉体に関する意識が日本とは比べものにならぬ程高いのである
。
そんな事をつらつらと考えながら、私は盲目の彼と今日も市内観光である。もう
めぼしい寺院はあらかた見尽くしてしまったので、仕方なしという感じで彼は私
を映画や小説などで有名な広場につれてきてくれた。中央の噴水付近ではヴァイ
オリンやアコーディオンが奏でられ、そちこちで大道芸人が技を披露し、画家や
写真家が作品を路上に広げている。活気溢れる、にぎにぎしい場所だった。
私は本来、寺院などよりこういう盛り場の方が好きなのである。乱雑な喧騒と鮮
やかな色彩が乱舞するのを見るのは気分が晴れて気持ち良い。隣の彼は幾分苦い
顔だった。宗教に馴染んだ人間ほど、こういう世俗は好かぬのかもしれない。
所詮は宗教など、腹の足しにもならぬのだ、と私は思う。現世に生きる人は兎角
浮き世離れした物―――それは高価な装飾品であったり、舌触りの好い外食であ
ったり、使いきれぬ財産であったり、そう宗教であったり―――に憧れがちだが
、結局本当に尊いのは日常なのである。宗教だけでは、人は生きてゆけない。
街には地中海特有の黄金色の陽光が差し込み、道行く人々はいよいよ華やぐ。私
も浮き足立ち、熱に浮かされたように人波を渡る。彼は渋い表情を崩さない。目
が見えないから歩きにくいのかもしれないと思い手を差し伸べたが、曖昧な笑み
で断られた。世俗の腕の助けは借りぬということか。
ふと、視界の片隅に何かが映った気がして、路傍に目をやった。洒脱で美しく色
鮮やかな広場の端の方に、何かある―――薄汚れた布を纏い、大地に縋るような
、とてもみすぼらしい―――私は息を呑んだ。
あるのではない、いるのだ。あれは、人間だ。ぼろ雑巾のような人間がいるのだ
。
その人は、地面にへばりつくようにして真鍮の椀を捧げもっていた。時折その椀
にコインをいれる通行人がいる―――乞食である。
私は思わず隣の彼を見た。盲目のこの聖職者は、しかしながら人の気配に非常に
敏感である。彼ならきっと路上の貧者に気付いているはずだ。この教会寺院に溢
れる街に潜む暗い背理を、彼は一体どう思っているのか。けして世界は平等では
ないし救いは容易く得られない、彼はそれをまのあたりにしてどんな顔をするの
か。私は野次馬の好奇心で彼の顔を見つめる。
一別したところ何の代わりもない表情はしかし注意すれば僅かに強ばっているの
がわかる。すると、彼は乞食の元へと歩み、ポケットを探ると、コインを椀へ入
れた。彼は施しをしたのだ!
私はただそれを見ていた。彼の行動は至極真っ当な聖職者のそれである。富む者
が渇える者に慈悲を垂れる、その行為は尊い。しかしもしも私が彼であったなら
、施しなどできまい。何故ならそれは、自分の優位を確信する行為であり、相手
に屈辱を与えるものだと思うからだ。だからきっと迷い、結局行動しない。しか
し、彼は行動したのだ。
偽悪よりかは偽善の方がいいに決まっている。けれど、私には確実にそうだと言
い切れる自信がない。そして彼は私とは違う。
彼は、聖職者なのだ。苦いものをかみ締めて、私は心の中で泣きたい気分になった。