あの日の悲劇を私は後から何度も悔やんだ。どうしてこんな事になってしまった のか、なんとか避けることは出来なかったのか………悲劇にも前兆はあったとい うのに。
そうだ。前兆はあったのだ。幾日も前から、悲劇は擦れ声で私や彼に危機を告げて いたのだ。小さな囁きに私は気付くこともできたのに。



かつて彼には弟がいた。私は兄弟のどちらとも仲が良かった。いつも私と兄であ る彼は授業を終えると、二人で弟のいる教会へと急いだ。―――あの弟は、いつ も教会にいたのだから。聖職者の黒衣を身にまとって。彼は僧侶だったのだ。 僧侶であった彼は、実に清らかに笑う人だった。邪気など何処にも見当たらぬ、 いつまでも年端のゆかない少年のような人だった。気性が穏やかで純朴であった 弟を、私と彼は愛した。
そういう聖職者らしい性格であった弟に比べ、その当時の彼は、健康な肉体と性 神を持つ遊び好きな男だった。兄弟思いではあったが、弟の信仰を鼻で笑うよう な無信心であった。若者にありがちなように、行き場のない情熱を持て余してい つも無茶をしでかすような………普通の男だったのだ。あの頃は彼は若く無鉄砲だ った。盲目でもなかったし、信仰心も全くといっていいほど無かった。弟が教会 にいる者でなければ、教会ともおそらく一生疎遠だったろう。兄弟は変わってし まったのだ―――あの事件を境に、兄弟は以前の面影を無くした。
あの事件は、兄弟の身に降り掛かった一連の不幸だった。まずは弟がやられ―― ―その跡を追うように兄が犠牲となった。きっかけは、弟だったのだ。兄は弟の 不幸によって平生を失い、盲目の信者と成り果てた。
一連の事件の始まりとなる最初の出来事は、不幸な事故だった。
私達はその日いつものように授業の終わったその身で教会へと向かった。弟もい つものように祭壇の前に跪き一日の最後の祈りを始めていた。何らいつもと変わ るところはなかった。私たちは教会の重い木扉を押し開け、暗い教会内のいつも の祭壇前に弟の姿を認め、少し声量を上げ呼び掛けた。彼は振り返り、私達を認 めるとはにかんだように笑い、祈りの最後の文句を呟いた。その顔を扉から差し 込む一条の光線が照らしていた。何もかもがいつも通りに進んでいた。私達は日 常に何の疑いも抱いていなかった。全ては昨日と同じだと思っていた。彼は祭壇 に背を向けて立ち上がった、その時―――いつもとは違うことが起きた―――祭 壇がぐらりと揺れた。
誰かが、あっ、と言ったのが聞こえ、
次の瞬間、硝子の割れるような甲高い音が響いた。
私も彼も突然の出来事に咄嗟に瞳を閉じてしまっていた。崩壊音は密閉された教 会に反響し、耳の奥にこびり付く余韻が止んだ時、私はようやく恐る恐る眼蓋を 上げ、そして目の前の光景に圧倒されたのだ。
金や銀や水晶できらびやかに装飾された祭壇が、床の上に砕け散っていた。何の 拍子でそんなことになったのか、磔上キリストが台座共々床に落下して、扉から の光線を綺羅綺羅と反射している。その豪奢な十字架の下に、黒の聖衣が見え た。血が染みだして、石床にぽってりと広がっていた。
茨を冠した鉛のキリストの下に白い手指が見えた―――その腕の先は――― ―――潰れている。
弟が、キリストに押し潰されている。
私はようやく状況を理解した。僧侶の兄が横で声にならぬ悲鳴をあげた。