過去、過ぎ去ったあの日、彼は視力を失った。それでなくとも落ちつつあった視
力はあの日を境に零になった。彼の生気できらきらと輝いていた黒曜石の瞳は救
いがたいほどに曇ってしまったのだ。
今でも目に焼き付いている。司祭のおらぬ祭壇の前で彼は泣き崩れていた。私に
は聞き取れぬ言語で何かを喚きながら、跪くようにして神に何かを訴えていた。
外は豪雨で、雷が遠くで鳴っているのが聞こえた。外の様子が見たいと覗き込ん
だ窓硝子は、叩きつける風雨で震えていた。月は分厚い雨雲の向こう側だから外
は墨を流したような暗やみで、教会中も祭壇を照らす照明以外は燭台一つ灯って
おらず、彼の姿もぼんやりとして暗がりと溶け込んでしまいそうに見えた。ただ
祭壇だけが輪郭をはっきりと見せていて、それが何となく厭だと私は思った。
そして、キリストが厭なのだと唐突に思った。あの人の教えは矛盾だらけだ。隣
人を愛せといった側から人を退ける。神への愛を説きながら異教の神を冒涜する
。支離滅裂ではないか。正義の名を借りてうまく周囲を操って自らの騙る神を…
……
違う、私はあの人の教えが厭なのではない、あの人のやり方が気に食わないのだ
。神を愛しているならユダヤの神を信じていれば良かったのに。唯一神を二つ造
るから矛盾が出来る。ユダヤの儀礼主義が気に入らぬなら、内側から変革してゆ
けば良かったのだ。何故ユダヤに相反しようとしたのか。相反すれば争うのは必
定だ、自分の教えに自分で泥を塗ることになるのは目に見えている。
違う、やり方すらもどうでもいい、私は単純に、あの人が、キリストが………
嫌いなのだ。
とにかく厭なのだ。キリスト教絵画はそのほとんどが磔とその後の復活のシーン
である。磔は自己犠牲の象徴、復活は聖性の顕現か。身をもって有り難い教えを
示してくださったということだろうか、私は馬鹿だから言葉で言われなくては分
からない。否、言葉で言われても分からない。自分の遺体を死後2000年近く晒す
その精神が疑わしい。
ああ、違う、違う、そうじゃない………
そうではない、私は、あの時、………
恐かったのだ。キリストの白面が。無表情で空を見るその視線が。泣き叫ぶ彼を
見ることもしない無関心な在り方が。力なくだらりとした手足は十字架に磔られ
て痛々しい。これは―――キリストの、遺体、なのだ。遺骸は死ねばただの物体
である。私たちは単なる有機物の固まりを崇めているのだろうか。青白い遺体。
死者の表情。
救世主でさえも罰されるのに。まして、私や、彼は。
そうだ、私は恐かったのだ。祭壇のキリストが、そして得体の知れぬ彼自身が。
あの時、泣き叫び嘆願する彼と蒼白な無表情のキリストで一枚の絵画のような世
界が構築されたあの教会では、私は限りなく異物であり、排斥されるべき存在だ
った。異常なのは、私だった。