例えば僕と嬰児の複雑怪奇な関係の理由であるとか。
例えば僕が嬰児の為に起こす殺人劇の理由であるとか。
例えば僕が嬰児の前でほとんど口をきかない理由であるとか。
例えば嬰児が僕の前でやたら冗舌になる理由であるとか。






僕にとって真に守るべきは嬰児だけであるし、それは逆もしかりである。世界は最初から二人だけに 開かれていて他を受け付けない。僕にとって有象無象の他人は存在しないも同然、視界に入っていよ うと脳では認識される事は無い。
今世界中の人間が死に絶えたとしても僕は一向気にしない、只嬰児だけが生きていてくれれば良い 。






間違えてはいけない。勘違いしてはいけない。真実大切な物はけして多くないのだ。己が身を呈して も守らなければいけない物、何があろうと手放してはいけない物、そんな物はこの掌に収まる程度な のだ。
問題はその数では無いし量でも無い、まして質ですら無い。大事な物が、そんな陳腐な言葉ではかり 知れる物である訳が無い。






灰色の摩天楼の中央で生きる僕らは、けして取り違えてはいけない。掛け替えの無い物というのは、 ほんの些細な物なのだ。指先で捻り潰してしまえそうな位、脆くはかない物なのだ。
それは、自分意外の者にとっては取るに足らない下らない物であるかも知れない。路傍の石と何ら変 わりない無価値な物であるかも知れない。けれど、他人の価値は問題ではないのだ。そんな物はどう でもいいのだ。大切な物は、自分にしか量れない。他人の非難を気にする所以は無い。






得てして道を無くしがちな僕らは、けれどこれだけは間違えてはならない。本当に大切な物であるな らけして見失ってはいけない。
片時も目を離さず、常に身のうちに置き、大事にすれば良い。他の物には目もくれず、只それだけを 愛でて見つめていれば良い。
最後に笑うのは、それを守り切った者だけなのだ。






ああ、もう僕は間違えはしない。大事な物を失いはしない。
愚かな僕は、大切な物が近過ぎる故にその大切さに気付けなかった。失いかけて初めてその掛け替え の無さを知った。価値を知らなかった自分の愚昧を呪った。
守らなければならない者は、すぐ手元にあった。
もう懲り懲りなのだ。喪失の恐怖にうち震え、届かなくなってしまいそうな者に歯がゆい思いをする のは、もう嫌なのだ。
あの時僕は、自分の無力を嫌というほど思い知った。思い通りにならぬ世を恨み、何も分かっていな かった自分を、死ぬ程後悔した。
もうその歴史は繰り返さない。二度とあんな思いをしたくは無い。
だから僕は決めたのだ。他の全てを犠牲にしても嬰児を守る事。嬰児の為に嬰児だけを基準にして全 力を尽くす事。他人など虫けら以上の意味を持たない、そんな俗物はもう相手にしない。歯牙にもか けない。その時間の全てを嬰児の為に費やす。
自分の事など二の次なのだ、彼が生きやすい場所を作る事の方が余程大事なのだから。
彼の世界を整える事。
僕には、嬰児だけが居れば良い。それ以上望むべくも無い。
他に何が必要だろうか。本当に大事な者は一人きり、それだけを守れれば良い。
僕はもう後悔しないのだ。
僕はもう後悔しないのだ。






僕は二度と同じ轍を踏まない。
嬰児を失う訳にはいかない。


















Something else ――――――― 6th


















朝の八時半。
多くの学生が学校へ向かう中、僕はその道を逆走する。
嬰児と話をした後、彼はその足で気分がすぐれないからと帰ってしまった。顔色は悪く、僕が嬰児を 追い詰めてしまった事は明白だった。僕は何も言わなかった。
それを見て僕も何か無力感に襲われ、結局帰路につく事にした。安直に言えば、サボリである。
そう、無力感。
ピアノ線のような緊張感で気を張っていたのが、呆気なくふつりと切れてしまった感覚。今まで何 の疑いも無く悠々と渡っていた橋が簡単に崩れ落ちるような無常感。可愛がっていた命の甲斐無く事 切れた時の違和感。
総じて、意味の分からぬ疎外感。
僕は、真実嬰児の事を何も分かっていなかったのかも知れない。
知ったようなふりをして成り上がっていただけなのかも知れない。
僕にしか心を開かない嬰児に、自惚れていただけなのかも知れない。
嬰児の何もかも知った気になって、思い上がっていただけなのかも知れない。
この感情は何だ。裏切られたような虚しさ、拭いきれない居心地の悪さ。どうして僕はうちひしがれ ている。
僕は過信していたのだ。自分の力を過信しきっていたのだ。
僕は全てを理解していると思っていた。何でも知っていると思っていた。自分にしか癒せない と思っていた。自分は良き友人であると思っていた。嬰児は僕だけを望んでいると思っていた。それ に答えられていると思っていた。僕の考えに同調していると思っていた。僕に賛同してくれる と思っていた。必要としてくれていると思っていた。僕だけを認めてくれていると思っていた。全て うまく ゆくと思っていた。自分の策は完璧だと思っていた。何の落ち度も無いと思っていた。世界は順調に 回転していると思っていた。僕らは世界の中心にいると思っていた。世界は隷属していると思ってい た。世界は僕らに優しいと思っていた。僕と嬰児は二人ぼっちだと思っていた。互いしかいないと思 っていた。嬰児もそう思っていると思っていた。僕らは一つだと思っていた。
独りぼっちだと気付いていなかった。
僕は、どうしようもなく愚かだった。
関係を過信する余り、嬰児の心情など考えもしなかった。
思いやり、庇ってやる。それが僕の最初の意志では無かったか。
それが何だ、嬰児の為という大義名分で誤魔化して、結局は自分の為に動いていただけではないのか 。
嬰児は質問の取り消しを「醜い保身だ」と言った。僕らは、最初から最後まで自分の事しか頭に無か ったのかも知れない。
僕らは、けして一心同体などではなかった。
当然だ。詰まる所僕らは別々の人間でしか無い。同一個体になれる訳が無い。
大事な者は間違え無い、つもりだった。
では、本当に大事な物は、何だった?
嬰児だと思っていた。違うだろう? そうではないだろう?
いい気に、なるなよ。
僕は、激しい取り違いをしていたのではないか。嬰児の為と言って、結局自分の益となる事しかせず に、大事な者だと勘違いして。
本当に大切な物は?
見直さなければいけない。僕はもしかすれば、大変な間違いを冒していたのかも知れないから。 おそらく僕らは今、岐路に立っている。
今までの盲目的な考えを棄てるべき時に来ているのだ。
距離を計り直し、新しい関係を取るべき時に来ているのだ。
このままでは、二人とも駄目になる。今がきっと潮時なのだ。
馬鹿な時間の終焉が、近づいている。
それはきっと、互いの為に。












「あーっ!あず君だー!」

考えに没頭していた僕の耳に、聞き慣れたやかましい声が聞こえた。顔を上げると予想どおり、声の 主は葉菜だった。

「あず君はこんなところで何をしているのかな? 学校行くんだよね? 道が百八十度逆だよー?  間違えた? ここまで間違えるといっそ清々しいねっ!」

葉菜は僕の進行方向から来たようだった。
つまり学校へ向かう道と言う事だ。僕は時計を見た。九時七分。とうに一限は始まっている。
僕の怪訝な表情を見て、葉菜は後ろ暗い所を微塵も感じさせない無邪気で明るい笑顔を浮かべた。

「よーこもねぇ、遅刻なんだよ。今から行っても二限だよねー、どーしたもんかなー」

葉菜の笑みは気持ち良い。爽やかで甘くなく、嫌味な所の無い表情である。それはきっと、綺麗な人 間のみに許された、無知の笑みなのだろう。一点の染みも無い白布の様な人間の。僕には一生かかっ てもこんな風に笑える時は来ないに違いない。
僕の様に汚らしい人間には。

「………学校に行くんじゃない。帰るところだ」

僕は無愛想に言い切ってまた歩きだした。葉菜が後ろから着いてきて騒ぎ立てる。

「えーっ!だ、だってまだ一限だよっ!? はやすぎ! マッハだ! 音の速さだ! あれ、光だっ け? あっ、もしかしてあず君風邪?じゃあ早く帰ってお布団引いて寝ないとっ! そんなにのんび り歩いてる場合じゃないよぉ!」

喋りだせば止まらない葉菜をそのままにしておいてもよかったが、それでは何処までも勘違いし続け そうなので、僕は口を挟む事にした。
葉菜の周りに渦巻くエネルギッシュな奔流に、僕のなけなしの気力まで吸い取られてしまいそうだ。

「サボりだ」

これ以上疲労を重ねるのも馬鹿らしいので、僕は簡潔に言った。
こんな返事ではまた大仰な反応を返されるかと少し身構えたが、葉菜は意外に静かに返答した。

「―――――そっかー。じゃあ、よーこもサボろっかな」

どーせ今から行っても怒られるだけだもん、と言った葉菜の笑顔は、ほんの少しだけ困っているよう にも見えた。

 

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