翌日。
朝、いつもは付けもしないテレビのスイッチを入れ、ニュースチャンネルに合わせた。
キャスターが事件を伝える。無機質な声で、淡々と。

『本日未明、○○市にて連続猟奇殺人の次の犠牲者が出ました』

伝える内容とその声音の落差に愕然とする。血液と暴力の殺人。それを報道する温度の無い声。
その温度差。

『被害者となったのは篠原恵津子さんの娘である涼子ちゃん二歳』

ディスプレイに踊る死亡の二文字。いかにも幸せですと言いたげな赤ん坊の顔写真。
人形よりも無表情なキャスター。
他人事なニュース。
平静な声音が伝える。

『―――――………母の恵津子さんは軽傷、現在病院で治療を受けている模様です……』
『―――――………恵津子さんは錯乱状態にあり、精神科医の治療を……』
『―――――犯人は未だ捕まっておりません』

僕はリモコンのスイッチを落とした。
唐突に訪れた静寂が不自然に部屋を満たす。
病院―――――病院。ナイフによる怪我は大した物では無かったはずである。と言う事はやはり、あ の母親の精神の錯乱は本物であったという事なのだろう。
あの母親は僕の顔を見ている。
母親が警察に僕の事を伝えることを危惧していたのだが、この分なら大丈夫かも知れない。母親の狂 気は、僕の見た限り随分なものだった。あの状態で冷静に僕の身体的特徴を医師や警察に伝えられる とは思えない。少なくともしばらくの間は問題ない。
これならば母親は放って置いてもいいだろう。僕は完全犯罪を目指している訳ではない、ただやるべ き事をやりとげるだけの時間が欲しいだけ。
全ておわった後であるなら、別にどうでも良い。逮捕されようが、刑務所に入れられようが、死刑に されようが。






ただ、あと少し。
最後の仕事をやりとげる、その時間だけ―――――。


















Something else ――――――― 5th


















結局、嬰児の質問には答えられそうも無かった。
あれから一晩その事ばかりを考えていたが、何度問いを反芻させても答えが見つからない。なんと言 ってやればいいのか分からない。
真実は言えない。かと言って気のきいた嘘も思い当たらない。
完全な手詰まりだった。
どうする道も無い、こちらから打つ手は無い。
ただ答えられるままに答えろという事なのだろうか。ならば嬰児は、果たして何と問うのだろう か。そして僕の回答は。
猜疑は消える事を知らない。
―――――やはり、不安だった。
自然ため息が零れる。憂欝と言わざるをえない。僕はけして、嬰児を壊したい訳ではないというのに 。寧ろその逆だというのに。
嬰児を護るには、騙しきるには、どうするのが十全なのだろう。どうすればあいつは幸せになってく れるのだろう。
またため息を零した。胸の辺りが重苦しいもので塞がってしまったような。
この頃は、心の休まる時が無くなったと思う。それは多分、僕の下した決断のせいで。
ああ、もう僕は、疲れてしまったのかも知れない。重い躯、いつも何処かが鈍く痛んでいる。
それでもいい。別に、それでもいい。だから。
後少しの間、この身体が機能していてくれたら良い―――――そう思った。
願った。












嬰児の登校は早い。朝誰よりも早く学校へ到着する嬰児は、僕が教室を訪ねると大抵冷たいくらいの 無表情で黒板を睨んでいるか、何語で書かれているのか判別不能な書を読んでいるかのどちらかだっ た。
それでもいつもは教室にすら居ないらしい。図書室やコンピュータールーム、未使用の教室を拝借さ せてもらうのだと。
それならいっそ学校など辞めてしまえば良いのに、と言った事がある。そんな風に授業を受けず只学 校に来るだけというのは退屈であろうし、ああ見えて頭の良い嬰児なら、学校など通わずとも好きな 様に生きていけるだろうから。時間を潰す為だけに通う学校は恐ろしく詰まらないだろうと。
しかし嬰児は首を横に振り、「君と一緒に卒業しなければ意味が無い」とのたまった挙句、「あくま で出席日数だけ取れれば良いのだ」と言っていた。
では何故いつも僕が訪ねた時だけは教室にいるのかと聞くと、「君が来る時は予感がするのだよ」と の事だ。あいつの言っている事の意味を僕は半分も理解できていない。
そういう訳であるから、いつも真実の意味で学校に来ているだけの嬰児が僕の教室へ来た事は無く、 例外的に昨日だけは嬰児からの呼び出しだったが、嬰児と僕のコミュニケーションの大半が僕からの 一方通行で、あいつから会話のキャッチボールが投げられた事はほとんど無く、僕もその関係に慣れ 切ってしまっていて、詰まる所僕はこういった展開を予想していなかった訳ではないのだが、いやし かし言い訳をしてしまう程度に予想していなかったことは確かだ。
教室の扉を開けると、其処に嬰児がいた。
思わず目を疑った。何故嬰児が僕のクラスに居るのか。もしかして教室を間違えたのかと思いったが 、いやそんな訳は無いと思い直す。ほぼ毎日通う教室を間違える訳が無い。

「何をきょどついているのかね?私が此処に居る事はそんなにも信じがたい事か?」

その嬰児の堂々振りに、ああ訪ねて来たのかとようやく思い至る。

「―――――お前が自分から僕の所に来るなんて珍しい」

目的は聞かなくても判明している。分かり切った事だ。僕の答えを聞く事。
苦々しいような重苦しいような、厚い雨雲の様な気分。
僕は答えを用意できていない。
得体の知れない何かを手探る様な不安。まだ一歩だって踏み出してもいないのに歩くのを躊躇う億劫 さ。ありもしない逃げ道抜け道を目で追う空しさ。そんな物が僕の胸の辺りで沈む様に渦巻いている 。

「そんなに警戒しないで欲しい処なのだけれどね。何も君を取って食いはしないさ、大切な君をね。 どうか安心して欲しいのだ、今日私が君の元へ参上したのは、君に頂けない話をする為ではないよ……亞澄」

………どうやら少し様子がおかしいらしい事に僕はようやっと気付いたのだった。
目的は……答えを聴く事では、無いのか?

「―――――用件は?」

一瞬躊躇い尋ねると、嬰児は小さく嘲るように口の端を上げて笑った。

「………本当に、世の中くだらない事ばかりだな。馬鹿げた事ばかりだ、どれもこれも全く思い通りにな らない」

そう言って嬰児はまた静かに自嘲した。
僕は眉をしかめる。様子がおかしい。いつもの風に皮肉っぽく笑わない嬰児は、何故か今にも壊れて しまいそうに見える。

「嬰児………?」

どうした事だろう。何故いつもみたく冷たく見下したようにしないのだろう。
冷徹な軽蔑しきっている筈の視線が、今は頼りない。

「何も無いさ。いっそ拍子抜けする位に何があった訳でもない。すまないな、だからどうかそんな物 言いたげな目で見ないでくれ。心配事など無かったさ」

そう言う嬰児の言葉は力無く、やはり何かあるのかも知れないと思わせたが、嬰児が黙している以上 僕に口出しをする権利は無いし事情を問いただす術も無い。僕らの関係はひどく曖昧で危うく、少し の均衡の揺れで脆くも崩れ去ってしまうような物だから、崩壊を恐れる余りに僕は何も嬰児に言って やれない。
嬰児はうっすらと唇を歪めた。それは或いはいつもの人を小馬鹿にしたような笑顔を浮かべようとし たのかも知れないが、ひどく引き攣り歪んでいるせいで、その試みに成功しているとはとても言い難 かった。

「取り消したいのだよ」

あの耳に心地よい声で、はっきりと嬰児はそう言った。
短く言い切った言葉の真意をはかりかね僕が目を細めると、嬰児はもう一度、今度はゆっくり言い含 めるように言った。

「取り消したいのだよ、亞澄。私が昨日した問いを。撤回したいのだ。人殺しの理由を問うた、あの 瞬間を。私は」

僕は驚き、目を見開く。何か言おうと薄く口を開いたが、すぐにまた閉じた。嬰児の強ばった表情が 何かひどく疲れているように見え、躊躇う。
全体何を言うのか。質問を取り消す―――――確かに僕に都合の良い話である事に違い無いが、しか しそれでは昨日のあの切羽詰まったような問い掛けは何だったのか。
昨日、ああ言った嬰児の顔はひどく真剣で、僕に誤魔化す事を許さなかった。あの嬰児は、本気で僕 に理由を問いただすつもりであった事は間違い無いのだ。嬰児の事だから、あの質問だって何日も考 えた結果の行為だったのだろう。
軽々しくあんな真剣な顔が出来るような奴ではないのだ、そんな事は僕自身が最も良く知っている。 だからこそ解せない。そんな、何日も悩んだ末の問いを、何故たった一日で取り消してしまうのか。 深い思慮あっての質問であったに決まっているのだ。それを何故そうも安易に取り消すと言うのか。
どう考えても不可解だった。何より非合理的だ。嬰児は極端に無駄はしない性格だ。
僅かな逡巡の後、僕は嬰児に目で尋ねた。どういう意味なのか。
嬰児はやはり疲労しきったように気怠げに目を伏せた。

「物言いたげな顔をしている。この提案はそんなにも意外かな? ……君にとっても、悪い話ではな いと思うのだが。これは条件として不満か?それは無いだろう? ―――――なぁどうして君は黙り 込むのだ、私は君の声が聴きたいのだよ。何でも良い、何か言ってくれ。私は今ひどく不安なのだ」

嬰児の、普段は絶対的に不透明で見透かせない瞳が、不安定に揺れる。落とせば壊れてしまいそうな ガラス細工の色をしている。僕はそれが嫌でならならない。
心臓の少しずつ切り落とされているような気がする。
何故嬰児がそんな顔をするのか。
僕は一体何をしてやれば良いのか。

「………何故急に質問を取り消す気になった?」

僕は半ば諦めにも似た感情でそう問うた。僕の周囲だけ空気が沈殿してゆく様だった。とうに気付い ている。僕には何一つ、こいつにしてやれる事が無い。
僕の心の内を知っているのかいないのか、嬰児はほんの少しだけ嬉しそうに目をそばめた。

「ああ、やっと喋ってくれたな。君はいつも口を閉ざしてしまうものだからね」

僕はそれと見抜かれない程度に眉をしかめた。
意味の分からない事を言う。お前は僕が喋らない理由くらい知っているはずなのに。
僕がこうして最低限しか口を開かないのは。
それは、嬰児が一番良く知っているはずなのに。
ふと、僕はくだらない、馬鹿げた空想に襲われる。
こうしているうちにも、嬰児が徐々に僕の知らない物に変質しているのではないか、と。
今目の前で嬰児の名を語る“此れ”はもう僕の知っているあいつでは無くなってしまっているのでは 無いか。
小さく頭を振って息を吐いた。本当にくだらない。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
限りの無い考えを捨てて、再度嬰児に尋ねた。

「答えになっていない」

また、嬰児は瞳を曇らせた。折角いつもの色を取り戻しかけていたというのに、また暗い靄に覆われ てしまう。
表情が歪むのが分かった。
まるであの頃の様に陰欝で希望の無い目付き。
だから、何故お前は。
そうも寂しげな顔をする。

「………そうだな。全くその通りだ。君が正しいよ。……すまない、私は少し疲れている様だ。
君は私が馬鹿な事をしたと思っているのだろう。今日このタイミングであの質問を取り消すなど愚か だと、私らしからぬと考えているのだろい。―――――ふふ、私にはお見通しだよ」
自嘲の響きを持って語られる言葉はひどく痛々しくて、聞いていられない。耳を塞いでしまいたかっ たが、真摯な声音がそれを許さない。
嬰児の何でもないようなふりは何処かちぐはぐでいびつで、装っているのが瞭然で。
それがなおの事痛ましい。

「自分でも馬鹿らしい事をしていると思っているとも。なんと意味の無い、生産性も合理性も感じら れない愚作を演じているのかと思っているとも。とんでもない道化だと思っているとも。自省出来る 位には、私は自分が利口だと知っているつもりだ」

静かに語る嬰児の表情は、もうすでに僕の知らない別人の様だ。
奴の皮を被った他人が稚拙な演技で嬰児を装っているみたいで気味が悪い。
今すぐ叫び出したい。大声で止めろと言って制止したい。口を手で塞ぎ叩き伏せたい。

「それでも私はね、亞澄。切り出さねばならなかったのだよ。言いださずにはおれなかったのだ。と てもじゃないが、黙って君の話を聞くなど耐えられそうにも無かったのだ。
はっきりと言おう。説明など一言で済む。ほんの数秒の出来事だ」

嬰児が小さく息を吐いたのが分かった。
俯き加減に地面を睨み付け、振り切るようにあげた顔はやはり倦み疲れていた。
戸惑う風に開かれた唇から、聞き慣れた声が聞こえる。

「―――――怖かったのだよ」

僕は微動もせず、足元から来る不定感と違和感に苛まれつつ。

「………何……?」

白痴さながらに聞き返した。

「怖かったのだ。怖かったのだよ。本当に恐ろしかった。まるで子供時代に、たった今まで手を引い てくれていた母親が急にいなくなったようだった。或いは見知らぬ地で言葉の通じぬ異人達に囲まれ た様だった。―――――私は恐れたのだ。答えを知り尽くす事を」

「どういう……?」

僕は沸き上がる悪寒を掻き消して尋ねる。
何もかもが不明瞭で覚束ない。こんなにも嬰児の事が分からない―――――いつから僕らの距離はこ んなにも開いてしまったのだろう。
嬰児の言っている事が上手く理解出来ない、など。
そんな事があっていい筈が無いと言うに。

「もしも君が真実を教えてくれなければ、私は悲しむ。もし教えてくれたとしても、私はきっと様々 試行錯誤に思い悩む。君の事を疑い、恨むやも知れない。此れはどうした事だ、たといどちらに転ぼ うと結果は苦悩とおうのうなのだ。―――――そう思い至ると居ても立ってもいられなくなってね。 どちらもが苦しむ解答なんて、愚かしい限りではないか。まして何の解決にもなりえない。君と仲違 えする可能性だって有り得る。そんな馬鹿な事は出来ないな」

ふと嬰児は遠くを見つめるような目をした。その視界には僕は入っていない。
強く引き結ばれていた口元が、また微かに開いた。

「―――――それ以上に私は、君に嫌われることを恐れたのだ。その質問が君にとって疎ましい質問 である事は最早明白であろう。………私は、その問いを投げ掛ける事で君に疎まれる事を恐れたのだ よ。
亞澄に、君に忌まれる事だけは、それだけは辛かったのだ。嫌だったのだ。堪え難い苦痛だったのだ 。天地が引っ繰り返ろうと世界が水没しようと、それだけは我慢ならない。そんな事になる位なら私 は喜んで死を選ばせて頂く。君が居なければ世界は屑同然だ、滅んで然るべき無意味な遺骸だ。私は そんな害悪の内に己が身を置く事を一秒だって許さない。
浅ましいな、いじましい。見るに耐えないおぞましさだ。醜い保身だよ、自分の為だ。下らない己を 助ける為のいっぱいいっぱいの策略なのだよ。わらってくれていい。
どうかわらってくれ。私は真実、蔑むべき愚者だ。こうなっては人間を名乗るも烏滸がましい、最低 の存在だ!」

嬰児は押し殺した声で自嘲の笑いを漏らしながら、語る。
嗚咽にも似たその声は徐々に大きく、けたけたと声をあげて嗤う嬰児は何処か壊れてしまったかのよ うで、正視も出来ない。
込み上げる違和感と吐き気に僕は立ちすくむ。
笑い声は僕の周囲で渦を巻き、反響し、誤字変換を繰り返しながら拡散していく。僕は身動き出来な い。

「私はね」

嗤いの余韻を消しやがて静寂に返る教室に、嬰児の、ともすれば宙に掻き消えてしまいそうにかすかな 声は意外な程明確な響きを持って伝わった。






「ただ君に厭われるのが嫌だった………本当にそれだけなのだよ―――――」

 

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