思慕の情。
親愛の情。
恋情。
愛情。
友情。
僕には分からない。
これらの感情は一体どんなものであると言うのか。
どんな違いがあり、どんな時に、どんな相手に、どんな心持ちで抱く感情なのか。
この感情を胸においた時、どんな心地になり、世界はどんな風に変化変質するのか。






また、僕には理解できない。
怒り。
安らぎ。
悲しみ。
嬉しみ。
苦しみ。
楽しみ。
これらの感情の間に一体どれ程の差があるのか。
怒りと安らぎにいか程の落差があるというのか。
悲しみと嬉しみに心地の違いはあるというのか。
苦しみと楽しみの後味は、同じ蜜の味ではないのか。
喜怒哀楽の心の機微は、それぞれに別々の名を付けなければならない程、本質を異としているのか。
どれも同じ、ではないのか。
分からない。
分からない。
分からない。






何より、最も難解なのは。
周りの人間皆は教えられずに自然知っているこれらの感情が、何故自分にだけ理解不能なのか。
どうして自分だけが、理解できないのか。
他の人間は何を持ってして感情の区別を行っているのか。
何故、自分にはそれが出来ないのか。






多分、僕は人間として何処かおかしいのだろう。
でなければ、狂っているか、壊れているか。
人間として、欠けてはならない所が欠けている。
そんなものはもはや、人間とは呼べない。
普通ではない。
尋常ではない。
異常。異端。人間外。
人間失格。
人間、失格。
他人の抱く感情を予測しながら人間のフリをして、こんな化け物は生きていてはいけないのだ。
一刻も早く死ななければならない。一刻も早く消え去らねば。
そうだ。
そうである。
僕は、この最後の仕事が終わったら。
今まで人の皮をかぶって生きてきたせめてもの懺悔に、世界に対して虚偽を貫いてきた罪滅ぼしに。
ようやく、自死するつもりだ。


















Something else ――――――― 4th


















午前二時と言えば、もう真夜中である。街中に人通りはほとんど無い。まして最近は僕の大量殺人の せいで、誰もやすやすと出歩かない。夜中となれば、尚更。
こんな時間に人のいる場所を、僕は一つしか知らない。
真夜中にかかわらず大量殺人鬼をものともせず絶対的に人の在る場所。
僕は今、夜間緊急病院にいた。
夜であろうと殺人鬼が歩き回っていようと、変わらず急病人は出る。
そして急病人が出れば否応無く病院行きである。
僕の個人的な見解だが、景気不景気に関わり無い職業は葬儀社と緊急病院だと思っている。
病院正面入り口付近、丁度中からは影になっている所にひっそりと立った。
救急車で運ばれる患者は、医師や看護士の邪魔が入る可能性が非常に高い。また、殺人犯として顔を見 られるような危険は冒せない。第一、そんな重病患者なんて殺しても意味が無い。
狙いは、自家用車。
たまにいるのだ。救急車を待つに耐えられなかった身内に連れられて来る病人が。
そういうのが、僕の狙いだ。
じっと待つ。目を細め、通りを眺めすかし、生け贄の通るのを。
通りを見つめながらも、僕は考えるのをやめない。
殺すなら……病人なんかよりは、健康な人間の方がいい。
僕も追い詰め甲斐があるし、犠牲者には出来る限り、己の身深くにこびり付く罪と対面し、思い知って から死んでほしい。
それには、病気というハンデのある者よりかは健康な、逃げる余裕のある者の方 がいいだろう。
一つ、ため息をついた。
我ながら中々悪趣味な考えだと思う。
自分の考えのおこがましさ、自己本位的な欺瞞加減にはほとほと嫌気が差す。
でもまぁ、いいだろう。全て終われば、潔く死ぬさ。
それまでの、我儘だ。
見苦しいのは、勘弁して頂こう。






神様、いるんならあと僅か、そこでじっとしててくれ。
もう何もしてくれるな。
あんたの裁きを待つ迄も無い、僕は自分で手を下す。
人の身で人を蔑んだ、愚鈍にも程がある罪人にも、人の身で人を罰した、思い上がりも甚だしいこの 身にも。
自分の始末くらい、自分でつけるさ。






ただ、待つ。
次なる犠牲者、屍られる愚かな羊、狂気の殺人鬼の哀れな贄。
その時ふと思い出してしまった。

『――君は、何故、人を殺す?』

嬰児の、言葉。
途端胸が早鐘を打つ。その質問だけは―――――。
深呼吸をした。肺の隅々まで空気を吐き出せ、そして吸え。
冷静になれ。冷静に。
悩み事をかかえていてはきっとうまく殺せない。
万一の失敗も許されない事なのだから。
完璧にこなさなければならない仕事なのだから。
頭を空にして、再度深呼吸をした。落ち着け。冷静に。
ナイフを持っていない左手で、服越しに心臓を抑える。触ればすぐ分かる程に激しい動悸。
無理矢理押さえ付けた。
―――――よし。大丈夫。
僕は、殺せる。誰より多く、誰より非情に殺せる。例え嬰児に何を言われようと。

例え、嬰児に、何を、言われようと、絶対に。そんな、どうでもいい事とは、無関係に。僕は、殺せ る。殺せる。

嬰児の言葉など、もう忘れた。
嬰児の言葉など……忘れた。
忘れろ。忘れた。
忘れたんだ、僕は。

 

 

 
―――――その時、思考を妨げるように丁度一台の乗用車が荒っぽく駐車場にやってきた。
随分と荒れた運転だった。半ば突っ込むように駐車場に侵入してきたその車は、駐車スペースで急停 止した。
直後、車内から転がり出るように飛び出してきたのは、女性のようだった。
まだ随分と若い………あれ?腕に何か抱えている―――――あれは……ああ、赤ん坊だ。
見た所、赤ん坊はひどく弱っているようだった。遠目なので判別つけづらいが、顔は真っ赤で呼吸も 荒い。
なる程。大体の事情は飲み込めた。
重病人の赤ん坊とその母親。差し詰めそんな所だろう。
僕は改めてその二人を見つめた。
緊急病院で殺しの獲物を探す時ネックとなるのが、獲物が最低でも二人組であるという点だ。
病人とその身内。
殺人という違法行為をする以上、自分の正体を知られるという事は最大のタブーだ。己の進退に直結 する失敗。
どちらか一人にでも生き残られれば、それだけで身は危うくなる。二人を相手にしたならば、必ず二 人とも殺さなくてはならない。それは殺人する上での約束事と言う物。
これが、ネックなのだ。
片方は病人とはいえ、大の大人を最低二人、一度に虐殺する事。しかも二人とも生きていて、逃げよ うとする獲物。これは非常に難しい。
だからこそ僕は普段狩りやすそうな獲物を慎重に見極めていたのだが。
もう一度、舐めるようにその親子の姿を見る。
二人のうちの一人は赤ん坊、一人は女。
条件は、絶好だ。
これを逃す手は、無いのではないだろうか。
躊躇は、一瞬。
すぐに、決断した。
ポケットに手を入れると、爪先にあたる冷たい感触。
そのナイフを握り締めて。
一息に暗がりから走り出た。
殺せ、殺せ、殺せ。
冷静に距離を測りながら、それでも全力疾走。
近づく標的。まだ気付かない。
殺せ。やるなら完璧に。
肉に刄を突き立てろ。
これから起こる殺戮を予期しながらも僕の脳髄はひどく正常に機能していて、まずどちらを殺すのが 良策か、この場合人体のどの箇所を傷つけるのが合理的か、打算に打算を重ねている。
ナイフを振り上げる。
刃先は迷わない、狙うは母親。先に逃げる可能性のある方を。
獲物との距離も残り僅か、その時。
母親が、こちらを向いた。
信じられない物を見たという風に目を見開いた母親は恐怖に顔を歪め、引きつったような喘ぎを洩ら した。

「ひ…っ!」

見られた…!
僕は身体に冷たい汗が滲むのを感じた。
見られた。
尚更早く殺さねば、人を呼ばれる前に。
顔を見られた。殺さなければ、早く、殺さなければ………!
母親は、よりしっかりと赤ん坊を抱き寄せると、僕に背を向け、一目散に走りだした。
迷いは数刻。
一瞬の躊躇の後、僕はナイフを逆手に持ちかえ。
逃げる母親の背を目がけ。
可能な限りの力と技をもって。
右手の、それを。
ナイフを、投げた。

 

 

 
放ったナイフは、母親の背中を浅く抉った後、からん、と乾いた音をたて、地に落ちた。
―――――失敗した。一撃で仕留めるべきだったのに。
あんな浅い傷では。

「…っ!」

声もなく、前のめりに倒れる身体。だが駄目だ。まだ駄目だ。あんな程度の傷なら死なない。
もっと完全に、息の根を止めなければ。
近づいた。俯せ倒れたままの姿勢で動かない母親。
ふと不思議に思い、動かない母親を覗き込む。
背中に擦った程度の傷では死なない、意識も飛ばないはずなのに。
何故、起きない…?
気絶しているのか、或いは。
何か、狙っているのか。
まさか、もう諦めたのか。
一歩一歩近づく。
いつ反撃してきても対処出来るように、すり足で。落ちたナイフを拾い上げ、右手に軽く握り、構え て。
攻撃されても十分に反応出来るだけの間合いを取って、倒れこんだままの母親を覗き込んだ。
目を凝らしよく見れば、母親は両腕を抱え込むようにして伏していた。意識はある。
両腕の中、庇うように隠しているのは………赤ん坊。
ああ、成程。
そういう事か。
己の身を呈しても子供は守ると、自分は殺されても子供だけはと、そういう決意だったらしい。
意外な結果だった。這いずってでも逃げ出すかと思っていたのだが、子供を守るという選択肢があっ たのか。
こうなるとは、思い至らなかった。身の安全よりも子孫を取るのか。予想外だ。
しかし、やはり母親の行為は無駄だったといえる。
子供を庇おうが庇うまいが、いずれにせよ、僕はどちらも殺すのだから。
右手のナイフを改めて強く握る。


このまま死んでしまえばいい、赤ん坊を守ってしねるなら、母親としても本望だろう?

 

 
確実に喉元を狙って、一閃。
ナイフをふるおうと――

 


「ぉぎゃあああぁ!!」

耳をつんざくような泣き声がした。音源は確かめる迄もない……母親の腕の中、庇われた赤ん坊。
静寂で保たれていた世界を打ち壊すかのような、破壊的な泣き声。
母親は慌てて子供をきつく抱き締めたが、泣き止まない。
僕は背中に冷たい物が伝うのを感じた。
まずい。まずい。まず過ぎる。
予想外、想定外。こんな時に、まさかこんな最悪のタイミングで。
今そんな大声を出されては。
人が来てしまう、僕がばれてしまう。
泣き止まない、サイレンのような声。
とにかく、止めさせなければ。
このままでは、確実に。
僕は慌てた。気を動転させた。
きっと考え方がおかしくなっていたんだろう。普段では絶対にやらないような馬鹿な真似をした。
僕は、離すまいと必死に食らい付く母親を無理矢理引き剥がして、赤ん坊を奪い取ると。
そのずいぶんと柔らかそうな子供の肉に、容赦無く鋭利な刄を突き立てたのだった。


















一泊遅れて、その小さな体躯の何処にと思うような大量の血液が溢れだし、僕の顔をびしょびしょに 濡らし、ついで惚けた顔で串刺しとなった赤ん坊を見上げていた母親の身体を真っ赤に染め。
一瞬の間をおき、母親は自分の身体を濡らした液体が何であるのか、悟り。

「…っやああぁぁぁぁぁああ!!」

狂ったように、悲鳴をあげた。

「ひぎっ、ああぁあっ…ぅあああっ!!」

夜の駐車場、非日常的な叫びが響き渡る。
母親は喚くのを止めない。もはや肉塊となりはてた赤ん坊を目を見開き見つめて、ただ狂ったように 叫ぶ。
…いや、狂っている。
この母親は最早正気ではない。
異常、だ。
母親から半歩、気圧されたように後ずさった僕の耳に、足音が聞こえた。
音源は多数、しかも―――――こちらに向かってくるようである。
もう一度母親を見る。やはり、まだ意味の分からない事を喚き散らしている。
殺す?―――――いや、今からでは間に合わない。
近づいてくる足音。
焦る。殺せない。
そうして僕はどうしようもなく、壊れたように喚く母親を置き去りに、その場から逃げ出した。






背中に、痛いくらいの叫び声を聞きながら。
僕は、逃げたのだった。

 

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