(それなら、良心は何処へ行った)

 ある時、私は自分の胸が鼓動を打っていないことに気付いて立ちすくんだ。稚拙な手つきで体中を探っ てみたが、どこにも生命の脈打つのが感じられない。私は心臓を失ってしまったのだった。
 まずいことになったと思った。まさぐってみると、左胸の心臓のあるべき部分の皮膚の感触は、中身が 無いので押せばへこみ、なんだかベコベコしていて、安手のセルロイド人形のような感じだった。
 その時私は田舎道をとぼとぼと歩いていたのだが、左右の畑では腰くらいの高さの木が茂り、桃色の果 実が今を盛りと実っている。農家の人がその果実をもいで籠の中に入れている。よくよく見ていると、 その桃色の果実はハートの形をしていた、私はそれの正体が心臓であることを直感した。木には、たわ わに心臓が実っているのだ。「どうか一つその心臓の実をいただけませんか」と懇願しそうになったが 、それは礼儀に反すると思ったので、咽喉下で言葉を飲み込み、代わりに何処で心臓が手に入るか考え た。もしかしたらスーパーで買えるんではないかと思いついた。
 そんな風に思いついた、その途端に、私はスーパーの野菜売り場のコーナーに立っていた。売り場には 奇怪な色形の野菜がずらりと並んでいた、見たことの無い野菜ばかりだったがどれも美味しそうではな かった、毒々しい色の商品に目を奪われながらも私は小さなピンクのハートが山積みになっているのを 見つけた。畑で見た心臓だった。あまりの嬉しさに私はこんもりとした山から一つだけ鷲掴みにして、 レジに飛んで行った。レジカウンターは一つしか稼動しておらず、そういえば私のほかに客はいなかっ たことにようやく私は思い至った、そのたった一つのレジカウンターにはひっつめ髪の見目の良い女の 子がいた。私が手の中に握り締めたハート型の心臓をカウンター台の上に置くと、女の子は清潔な印象 を与える面持ちではきはきと感じよくこう言った。「お客様、こちらは心臓ではありませんが、よろし いですか?」「違うんですか?」「はい、本商品は、肝臓です」必要なのは肝臓ではなく心臓であり、 私は打ちひしがれて、俯きながらに購入をやめることをレジに伝えた。レジ打ちの女の子は同情を含ん だ眼差しをしていて、「心臓は、スーパーでは買えないんです。申し訳ありません」と言った。私は罪 の無いレジ係にそんな顔をさせてしまったことが恥ずかしく、誤魔化しの微笑を浮かべて「お騒がせし ました」とだけ言い足早にスーパーを去った。
 スーパーで買えないなら何処で手に入れようか思案しながら歩いているうちに、一つの疑問が浮かんで きた。私は今必死に心臓を捜し求めているが、それはどうしても無くては困るものなんだろうか。今心 臓無しで無事に生活できているんだから、別に要らないんじゃないか。そもそも、心臓はどうして必要 なんだろう。
 誰かが目の前に立ち止まる気配がして、俯いていた顔を上げるとそこには友人が居た。友人は人好きの する笑顔を浮かべて挨拶を述べた。私はこの友人は心臓を持っているんだろうかと思い、無言で彼女の 左胸をまさぐると、やはり心臓のあるべき部分は空洞であり、さわるとべこべことへこんだ。私の突然 の狼藉にも彼女は怒っていなかった。「心臓はどこへやってしまったの?」と問うと、彼女は答えた。 「何言ってるの、この間みんなで一緒に心臓を捨てに郊外の谷にでかけたじゃない」私には覚えが無か った。「あなたが言い出したのよ、これから社会に出て行って世の中と渡り合っていくのに、私たちの 心臓は邪魔だから、一緒に捨てに行こうって。それで私たちみんなでお弁当を持って街外れへピクニッ クに行って、帰り道に「いっせーのーで」で谷底に投げ捨てちゃったんじゃない」「だって、心臓がな いと困らないの?」「困るものなら捨てないよ。このご時勢、社会に出てる大人には心臓を持っている 人の方が少ないくらい」そこで私は不意に違和感を覚えた。この友人は、ころころ変わる表情が可愛い と思っていたのに、一緒に話し出してから一度も人当たりのいい笑顔を崩さない、表情が全く変わらな い。私は尋ねた。「心臓には、どういう役割があったのか知ってる?」「学校で習ったのに、忘れたの ? ほら、心臓からは良心が生み出されるって、先生言ってた。心臓がないと、いつくしめないし、い とおしめないし、かなしめないって、生物の時間に教えてもらった」「それじゃあ、良心を 捨てちゃったの?」彼女の表情は奇妙なくらい変わらなかった。張り付いたような笑顔だった。この子 には心臓が無いんだと思うと、不気味にさえ感じられた。そして、笑みを絶やさぬまま、彼女は言った 。「だって、良心なんて、あったって邪魔なだけじゃない」怖くなって、走って逃げた。
 走って、そのまま、辿り着いたのは街外れの谷の底だった。皆で一緒に心臓を投げ捨てた筈だった。ど こかに心臓があるはずだ、私と友人たちの心臓が。谷底は岩肌が剥き出しで荒涼としている。私は遮二 無二、這い蹲るようにして探していると、岩陰からのそりと狼が現れた。灰色の、毛並みのこわい狼だ った。遠いところに佇んで私のほうを見ている様子がどことなく孤高で、人になれない野生の生き物で あることを感じさせた。狼は口を聞いた。「心臓は、おれがもってる」驚いてよく見てみると、その狼 の胸の部分が大きく膨らんでいた。きっと、あそこに私たちの心臓が詰め込まれているんだった。「谷 に落ちていた心臓は、全部おれが食った。うまくもまずくもなかったな。何となくあったかかったけど 」私の分の心臓が食べられてしまったと聞いて、驚愕し慄いた。「あれが無いと、私が困るから、返し て!」「ただで返せというのは虫が良すぎやしないか?」狼はにたりと笑った。黄色い牙が見えたが不 思議と恐ろしくは無く、ただ不愉快だった。狼は言う。「大体、お前は要らないから捨てたんだろう、 それを今更。心臓を返して欲しいなら、おれを殺して、おまえの心臓ごと俺の肉を食べてしまうことだ ね。おまえにその勇気があるならの話だが。見たところおまえは意気地なしの腰抜けだ、果たして出来 るかな」私は震えた。狼は不敵な口調で私を嘲弄した。「おれを食うことが出来たら返してやるよ。で もおまえにおれが食えるのか? 弱虫で石を投げることも出来ないおまえが、おれを食えるのか? 他 人を非難することも出来ない人間が、いつくしみいとおしみたいだなんて、ちゃんちゃら可笑しい、臍 で茶が沸く。おれは狼だから、石を投げるよ。気に入らない人間にはいくらだって石を投げて、非難し てやる。その代わり、素敵なやつは全身全霊いつくしむよ。そいつを傷つける奴に石を投げて殺してし まってでも、いとおしんでみせるよ。石を投げることも出来ず、心臓も持たず、お前は本当に屑みたい な奴だね。いっそ死んだ方がましじゃないかな」狼はせせら笑った。 獣は今私を非難していた。「返して欲しけりゃ、おれを食えばいいよ 。でも、食ってごらん、そうしたらおまえも人並みに石を投げるようになるから。おれを食ったら、おまえは、別 段憎くもない人間に石を投げたくて堪らなくなるだろう。我慢できず、そのうち本当に石を投げるよう になるだろう。おまえは、そのリスクを負っても、心臓が欲しいか? 第一、おまえは、無知すぎる。 石を投げずにいつくしみいとおしむことだけ覚えようなんて、滑稽だよ。おまえは、心臓を手に入れた いなら、石を投げなければならない。おれみたいにね」狼の侮辱的な言葉に、私は困惑した。狼は大き くて強そうで、とても私には殺せそうに無い。肉を食うには殺さねばならないが、狼は私が屠るには手 に負えないように思われた。私は泣きたくなったが、どうしてだか、泣くにも泣けず、余計苦しい。 「おまえは泣けないよ、心臓が無いから。悔しかったら、おれを殺して食べればいいさ。おまえに狼が 食えることを証明してみればいい。どうする、殺すか、殺さないか、食うか、食わないか、はっきりし ないといけない」
 私はすっかり混乱し、何が何だか分からない。狼は爪を研いで、よだれをたらした。大きく膨らんだ胸 はへこんだ私の胸とは対照的に、脈打ち波打っていた。殺そうにも剣が無かったし、猟銃なんてもって の外で、道具が無い以上殺せない。私は狼を正視することもままならず、途方にくれて、天を仰いだ。 狼は舌なめずりして言った。「そっちが来ないならこっちからいくよ」そして洗練された筋肉に覆われ た後ろ足で、私に向かって飛び掛ろうとでもするように、高く跳躍した。

( や ら れ る ! )