目が覚めてふと気がつくと博士が消えていた。半月前に蔵書室から自室に移ったときと同じ唐突さ で博士は再び消えた。昨晩博士と屋上で語らって後、目が覚めると博士は消えていた。また蔵書室に 戻ったのだろうかと思った白はそちらを覗いてみたが、博士は不在である。一通り城郭を巡って博士 の姿が見えないことに気付き、白は蒼白になった。
 思えば白と博士の縁はけして深いものではない、実際のところ白は博士の本当の名前すら知らない のである。名前など無くても博士は博士であると思っていたから白は聞きもしなかった、今から思え ば浅はかな事を考えていたものだと歯噛みする。名前は存在を決定する、白は博士の本名を知らない 、それは博士の真実の姿を知らないと言うことに他ならない。白は博士と言う名の男しか知らない、 博士と名づけられた男しか知らない、白にとっては『博士』が全てであった。そうして多く知ること を放棄した報いが現状である。探そうにも探しようが無い、白と博士の縁は目に見えて浅い。ぐるぐ ると城郭内をそぞろに歩きながら、白は焦燥する。あまりにも多くのことを知らなすぎた、後悔はい つも遅すぎる、博士が見つからない。
 城郭はけして狭くはない、二人きりで生きていくには寧ろ広すぎるほどであった、白が城郭内を隈 なく歩き回っているうちに日は暮れる。足元が見えなくなったことに気付いて白は顔を上げると空に は月が光っていた。満月である。青すぎる月は死人の色だと思い、不吉過ぎると首を振って打ち消し た。月が明るすぎて星が見えない、墨で塗りつぶしたような空に月だけがぽかりと浮かんでいる、画 用紙を切り抜いて空に貼り付けたような現実感の無さである。何故だか白の脳裏に、蔵書室で「母さ ん、」と囁いた博士の横顔がぽつりと浮かんで消えた。白は博士の自室に足を向けた。
 博士の部屋は至って質素で、目立った家具と言っては整理の行き届いた机一つである。その机上に 、一冊の本が置かれていた。白が手にとって見てみると、表題に『宇宙論』とある。白には思い当た る節があった。この本は知っている、かつて読んだことがある。城郭に来た頃、文字の読めなかった 白の為に博士は字を教えてくれた、その時の教材に用いたものである。この本の中身なら白は空で言 える程である。地球は大きな皿である、その中に満々と湛えられた海という名のスープ―――――懐 かしさにパラパラと捲って見ると見覚えのある文字ばかりが並んでいて懐かしい。
 目は文字を追いながら、思考はまったく別のところを漂っている。幸福な時に物を考える者は少な い、夢のように幸福だった二週間が終わって初めて、白は考え始めたことがある。博士は沢山の街の 女を閨に引 き入れていた、それが白にはどうしても解せなかった。本能のままの行為を疎み、理性で割り切れぬ あらゆる感情を厭うていた博士にとって、劣情ほど忌まわしいものは無かった筈である。白には満月 の晩に必ず行為に及ぶ博士は理解できなかった。けれども、今になってその意味が薄っすらと見えて くる。博士は街の女の中に母親の影を求めていたのではないか。何度も蔵書室に赴き博士の帰城を促 した日々に一度だけ見た博士の顔―――――女の幽霊に「母さん、」と呼びかけた博士の横顔――― ――あれは、長の年月追い求めていた陽炎をようやく捉えることの叶った愉悦と安息の顔だったので はないか。博士は母親の幻を一瞬たりとも忘れたことは無かった、いつだって母親を追いかけていた 、だから街の女を………
 けれども街女はけして母親ではない、彼女等は博士の母となるべく博士と床を共にしたわけではな かった。だから博士は女を殺してしまう、倦み疲れた顔で女の首に手をかける博士の顔が目に浮かぶ 。殺害することで博士は絶望を押し殺していたのなら、女は母親でないという理由で殺されていたの なら………
 もしかすれば、白が博士に拾われた理由は似たようなところだったのかもしれない。博士は、白に 母親の面影を感じ取って娼妓館から連れ帰ったのかもしれない。博士は母親の影しか見ていなかった 。博士が白を愛してくれなかったのは、白を通して母親を見ていたからだったのではないだろうか。 それだけでない、博士が誰も愛していなかったのは、あらゆる人間の向こう側に透けて見える、母親 の影ばかりを見つめていたからではないだろうか―――――
 無意識に文字の上を走っていた目が、ふと止まった。月についての記述の頁に、博士の書き込みが してある。

満月の晩、海から月に乗り移る。上手く月に上陸できたなら、或いは母に逢えるかも知れない。

 白は窓を見上げた。今晩は満月である、青白い月が恐ろしいくらいに光を放っている。それでは、 博士は―――――
 今晩は満月である、海から生まれ出る月に乗り移るには、絶好の日和である。博士は帰ってこない であろう、成功すれば母に逢える、失敗すれば死ぬしかあるまい、だから博士は。
 白の手から本が滑り落ちた。鈍い音を立てて本は床に落ちた。その拍子に背表紙が開いて、博士の 書き込みが隅の方に小さくあるのが見えた。白はかがんで文字を見た。

     母でなかった女は殺してしまった。だのに母でなかった白は殺さなかった。もしかすれば 、それが白の欲しがっていた愛情であったのかもしれない。私は白を愛していた。

 零れ落ちた涙で、インクが滲んだ。月がとても青く、それを見上げて白は声をあげて泣いた。


/ END