兄弟たちの会話。
「昨日のワーグナーのオペラは本当に良かった」「知ってる、見に行ったもの、ドン・ファン!」「馬鹿、違うよ、それはモリエール」「モリエールのはラストが悪い、意志を貫くなら最後まで」「神さまがなんて言おうと、ね」「なんだ、ドン・ファンもやってたのか」「見に行けばよかった」「残念ね」「結局なんだったの、その、ワーグナー」「トリスタンとイゾルデ」「色恋が何だ」「あら愛こそ全てだわ」疲労と無為ばかりが降り積もっていく食卓で、ウィトゲンシュタインの意識は遠のいていく。これが会話だ、全ての人間には、口はあっても耳はない。「舞台よりむしろ客席に価値がある」「音楽が絶品だわ」「そう、終幕の、棺に入った二人を残して最高潮に盛り上がるトランペット、フォルテシモ!」「ていうかドン・ファン」「しつこいわね」「あんな伊達男」「フォルテ、そして、徐々にディミヌエンド」「墓場のように静かな音で」「死人を祭った石像が動き出してドン・ファンを貫くんだ、最後の裁き」「死んだ父も嘆くわ」独り言を呟いているだけならば、口の中でそっと囁いていれば良いのだ。大勢の中で声高に主張する独り言に、意味なんてどこにあろう。「復讐の最高潮で、悲劇の矢が放たれたかのように、一瞬だけ響くフルートの音」「復讐はハムレットよ断然」「王道ね」「王道を知らずして語るなかれ」胸の辺りが鉛でも入っているかのように重い。擦ってみると、皮膚が冷たくなっている。「最後は死で終わる、全て例外無しに」「汝、何物を救いと呼ばん」「悲劇も語るものがなければ」「語られない物語は死あるのみよ」「言葉に出来ない事象ならば、存在しないも同然」「存在するものの全ては合理的である」「故に非合理は存在し得ない」
 目の前が暗くなってくる、貧血のように、脳の奥の方がくらくらして、ウィトゲンシュタインはナイフを置いた。フォークも置いた。そして目を覆った。地獄がある。食卓に地獄が顕在している。