ウィトゲンシュタインは語る。
 私が、”I have a pain.”と主張するその痛みは、私一人のものだ。それを声に出して他の人に訴えようとするのは、さもしい。それゆえウィトゲンシュタインは苦痛を主張しない。彼はいつも無言のうちに、鈍痛を堪え、静かに瞳を閉ざしている。同情を得ようとするような行為は、軽蔑すべき卑しさだ。
 会話は彼にとって無為な単語の交換でしかなかった、それは語り合う二つの世界に交差点が見つからないからであって、それゆえ彼はいつも、冷たい風が吹き抜けるのを一人でじっと立ちすくんでいる。喪服を着た女性の横に、白いタキシードを着て髪を撫で付けているようなものだ。物乞いをして露命を繋いでいる人の横で、太った金満家が腹を掻いているようなものだ。二人の人間の間には隔絶間が横たわっていて、何を言おうと言葉が通じない。片一方は中国語を話しながら、もう一方は英語で応答していて、身振りでなんとなく推し量る意思は、いつも靄にかかったように不明瞭だ。私の痛みは、隣人には対岸の火事であって、焼け出されて路頭に迷う苦労をわざわざ自分で大声で触れ回るのはみっともない。自分が白鳥のように水面下で足をばたつかせているのを誇張して主張するのは、虚しいし馬鹿馬鹿しい。
 会話とは何だろう。言葉を交し合うのが無意味なら、なぜ人には言葉などというものが与えられたのだろう。彼の唯一の友人に質問したことがある。「時折、私の兄弟達が、お互いに笑いあったり冗談を言い合ったりしている、その癖互いの言うことなど塵ほども聞いてやしないのだ。てんでばらばらに主張したり相槌を打ったり笑ったりしている、あれは一体何なのだろう?」「ウィトゲンシュタイン、それを、人は会話と言うんだよ」友人は悲しげな目つきでそう断言した。「まさか! だって、会話とは、意思を交換し合うことだろう。相手と共感しあうことだろう。喜びを、悲しみを、痛みを、我が事のように受け止め、一つの意思として反応することだろう。会話とは、そういうものだろう、私の兄弟のしているあれは、単なる言葉の投げ出し合いだ。共有も共感も何もない。ただ、自分の言いたい事を言い捨てているだけだ、独り言を言い合っているだけだ、あれが、会話な訳がない、そうだろう?」友人は痛ましいものでも見るような風に、静かな口調で、けれどもはっきりと、言った。「違うよ。それが会話だ。そういうものだ。そういうものなんだよ。哀しいことに、それが会話なんだ」

もしもそうなら、ピンセント、私は、哲学者になど、ならなければよかった。飛行機乗りになって、墜落して、何も知らないふりをしながら死んでしまえばよかった。