16

 妻が決然として否定したのはその時が初めてでした。妻ははっきりとした声で、いいえと言ったのです。
「いいえ。左に行きましょう」
 暗い方へ。暗い方へ行きましょう。そういう妻の瞳には輝く星が宿っていて、きらきらと、希望に燃え立っていました。見たこともないくらい生き生きと輝いていたのです。私は妻の瞳に、その不屈の瞳に、目をひきつけられました。何度虐げられたとしても、また虐げたとしても、私達はいきつづけるのだ、暗夜行路です。地平線に消えつつある残照の灯火を求めて、這いすすむ。死んでたまるものか。たまるものか。
 妻は私の手を取り、左の道へとずんずん進んでいきます。腕をとられて引きずられるように、私は足をもつれさせて、左へ足を踏み入れ、一歩、また一歩。妻は力強い声で、独り言みたいに言いました。
「死んでたまるものですか。あなたも左に、行くんです。私と一緒に。二人で、一緒に」

 その後伝え聞いた話によると、二股道の右では大火事が起きていて、煙と炎に撒かれて、多くの人間が焼け死んだということです。あのほの暗い明るさは、建物と人の焼ける炎の明るさだったのでした。もしも妻が私を左に連れて行ってくれなければ、私たちがどうなっていたか、想像に難くはありません。私は今でも時々、思い出します。妻の瞳が不思議に夜の中照り輝いていたことや、右の道の仄明るさ、静かに語っていた兄の言葉。そういうものを、時々思い返して、私は本当に、息苦しい喜びと悲しみに同時に打ち抜かれた気分になります。