13

 寝ても覚めても死んだはずの人が私に語りかけてきたものでした。私は、残り少ない芋を食べていながら、どんどん中身が少なくなっていく配給の酒瓶を見つめながら、綺麗に更地になっていきつつある東京を歩きながら、爆弾の降ってくる街で、いつも話をしていました。
 栄さん。俺はねぇ、いつもおまえと喋っていると、外国語でも聞いているような気分になって、一人ぼっちで外つ国に放り込まれたみたいにまごまごしたんだ。おまえといると、俺はいつも変な気分になるんだよ。寂しいような、侘びしいような、それでいて余りの通じなさに腹が立ってくるような、そんな気分だ。誤解しないでくれ、俺はおまえが嫌いだったわけではないんだ、嫌いなんかじゃなかった、でも時々、憎くて憎くて堪らなくなる時が、あったんだ、そしてそういう瞬間に俺はおまえを憎む以外にどうすることも出来なかったんだ。
 あなたは兄さんですね。懐かしい声だったので、私は思わず嬉しくなって声も弾んでしまうのだ。久しく会いません、あなたのお墓参りにも随分行っていない。無沙汰していてすみません。ちっとも忙しくなんかないのに、なんでだか、墓参りの時間が取れないんです。それは私があなたに会いたくないというわけではなくて、ただ何となく、墓場は気鬱で、土の湿り気が何とも言えず血とか体液とかを想像させて、それで嫌だなぁと思って、行っていないだけです。不義理で、すみません。
 相変わらずだね栄さん。そう言って兄さんは歯を見せて笑いました。白くて丈夫そうな歯だ。おまえは、いつもそういう風に、普通の顔をして普通でないようなことを言うから、俺はいつも困ってしまうのだ。幼い時に蝉取りをしたね。竹で作った籠に沢山、二人で蝉を取ったろう。大豊作を二人で喜んだその帰り道、おまえは言ったんだ。兄さん、僕ら残酷だねと、おまえは言ったんだ。俺はそれを聞いて、なにかとんでもない罪を犯してしまったような気がして、うろたえた。そうしたらおまえはまたぽつりと言ったのだ。可哀想だなぁ。そう、言ったんだ。それでもう、俺は駄目だった、おまえへの憎しみが積もって積もって仕方が無くなって、おまえを突き飛ばして、竹籠を道に放り捨てて、走って家に帰って、鍵を閉めたよ。可哀想だというくせに、おまえは俺より沢山、蝉を捕まえていたじゃないか。
 そんなこともありましたね。もうよく覚えていないが。そうだ、兄さんは、随分僕に意地悪したんだった、そうですね。あの時の蝉は、小さい竹籠に沢山詰め込んだせいで、すぐに死んでしまっていました。兄さんが走って帰ってから、僕は籠を開けて蝉を逃がそうとしたんです。でも、もう死んでいた。ひっくり返して振ると、ぼたぼたと、地面に死骸が積もりました。夕焼けの光が赤く照らし出していて、私は、こみ上げてくるものを堪えているような顔をしたんだったと思います。
 俺はいつも、おまえを苛めたね。仲良くしよう、優しくしてやろうと思うのに、いざおまえが口をきくと駄目だった。おまえが俺とあんまり違いすぎるので、また俺の知っている他のどんな人間とも全く違っていたので、俺はおまえが実は人間ではないのではないかと疑ったりした。おまえ一人だけ、夕焼けの夢の中に生きてるみたいだったじゃないか。おまえ一人だけ、算段をつけて働いたり目算で勝機を測ったりあざとい策略で利益を確保したり、そういうことを知らないみたいに、足を踏み外して彼岸に仲間入りしている風に現実感が無かったじゃないか。怖かったのだ俺は。栄さん、おまえと喋っていると俺は、孤独や寂しさに飲み込まれてしまいそうで、つい死にたい気分になってしまいそうで、それで怖かったのだ。いつだったか、川遊びをしていて、おまえは岩の上にぽつんと立って林のほうを眺めながら、あそこにばあちゃんがいるよ、と言った。でもその時もうばあちゃんは死んでいて、そんなところに居たはずが無いのだ。俺は背筋が冷たくなって、それに腹立たしくなって、馬鹿言え!と罵るくらいしか出来なかった。それでも向こう側を見て手を振ってるおまえの足を掴んで、川に引きずり込んだ末に、頭を水面に押さえて呼吸が出来ないようにした。あの時俺は、おまえなど死んでしまえば良いのだと、確かに考えていたよ。ひどく凶暴な気分になって、頭のたがが外れたみたいに、でもとびきりすっきりした明瞭な頭脳で、そうだ殺してやれば良いのだと、それが一番だと、爽やかな気分で考えていたよ。
 兄さんはいつも、唐突に乱暴になるから、私にはその境目が分からなくて、苦労しました。兄弟仲がとりわけ悪いわけではなかったのに。川で呼吸が出来なくなったあと、私は失神しました。気付いたら、家の畳で寝ていて、天井の木目を数えていて、横から誰かがすすり泣きするような息遣いが聞こえてきたのでそちらを見てみると、兄さんが泣いていた。私はぼうっとした頭でそれを見ていて、私が目を覚ましたことに気付かない兄さんは泣きはらした真っ赤な目をそのままに、ずっと途切れがちな嗚咽を洩らしていた。いつも私に辛く当たったあとで、兄さん、あなたは、悔いていたんでしょう。かっとなったらすぐに乱暴してしまうくせに後まで尾を引いて後悔するんだから、私はちっとも気にしてなかったのに、あなたは私に与えた傷を、私よりも熱心に覚えていて、それでいつも悔いていたんでしょう。それで夜中に布団の中で一人で息を殺して泣いていたんだ。知らないふりをしていたけど、本当は知っていたんです。ごめんなさい。
 知っていたのか。
 はい。
 そうか。そう呟くと兄さんは地面に視線をやって、所在なさげに身じろいだ。どうして俺達はいつもそうなんだろうなぁ。いつもいつも外国人と喋っているみたいに言葉が通じなくて、俺は苛苛して、ついきついことをしてしまうんだ。あとで言わなければよかったと死ぬほど後悔するに決まっているのに。俺はおまえが、嫌いではなかったんだ。本当は、たった二人の兄弟なのだから、お互いに支えあい強く生きていきたいものだと思っていたんだ。だのに行為は空回りするものだから、努力すれども俺とおまえの間は隔たりを深めるばかりで、俺はすっかり嫌気が差して再び意地悪をしてしまうのだ。優しくしてやりたいと思ったこともある。男兄弟らしく高めあえるようにありたいと願ったこともある。世の中にはこんなに大勢の人間がいるが、その中で血を分け合い同じ腹から生まれた兄弟はおまえ一人なのだ。掛け替えがないことくらい、重々承知していた。
 生きている間は、私達は、少しも理解しあえませんでしたね。いつも猿芝居みたいに会話するか、それとも互いにすれ違って反目していたり疎外しあっていたり、一度も心から理解しあえたことがありませんでした。どうしてでしょうね。私もあなたと和解したいものだと考えていた。兄さんも私と兄弟らしくありたいと思っていた。それでどうして、うまくいかなかったんでしょうか。
 俺にも分からない。ああ、栄さん、死んでも分からないことばかりだ。