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 目を覆って俯いてしまったウィトゲンシュタインに、彼の姉が会話を中断して、言った。
「可哀想に、辛いのね。あなたは昔からそうだったもの、それに、私達みんなそうだったもの。兄弟、かわいそうに、辛いのね。みんなそうなのよ、私達兄弟は、みんな少しばかり聡かったので、それで苦しむのよ。教えてあげる。あなたの兄弟は全部で八人、その中の男兄弟で、自殺せずに生き残るのは、たった二人よ。あなたとすぐ上の兄、たった二人だけなのよ。一番上の兄はペインティングナイフで頚動脈を刺し貫いて、キャンバスの描きかけのピエタを台無しにしたわ。二番目の兄は父に勘当された時に、家の門の前で、小銃を口の中に突っ込んで打ち抜いたわ。三番目の兄はアヘン漬けになってモーツァルトの虹色の楽曲を聴きながら、噛み切った舌を飲み込んで真っ青な顔で窒息死よ。みんなそうなのよ、この家は、みんなそうなの。兄弟の誰も彼もが疎外されていて、戦いの重さに耐え切れなくて、地面に突っ伏してしまうのよ。可哀想に、私の弟、あなたもそうなのね。本当は、私達兄弟、いくらだってお互いに慰めあえたのよ。こんな無為な会話をしなくたって、もっと真剣に、正直に、語り合えば、同じ腹から生まれた兄弟だもの、分かり合うことくらい出来たはずだったのよ。ワーグナーもモリエールもシェイクスピアもどうでもよかった。ただ、今にも死にそうな目をしている兄弟の手を握って、こう言ってあげれば良かったのよ。大丈夫、私達はあなたと同じように生きて、同じように考えていて、あなたはけして一人じゃない。何があっても私達兄弟はあなたの味方だし、それはこれからも永久に変わらない。今は何があっても、あなたは一人じゃないわ、周りは敵ばかりに見えるかもしれないけど、私達兄弟は味方になりたいと願っている。大丈夫。きっと大丈夫。ただ、そういってあげれば良かったのよ。ドン・ファンもトリスタンとイゾルテもハムレットも、そんなものはどうだって良かったの、私達は兄弟で、お互いに支えあいたいと願っていて、助けてあえる誰かの腕に飢えながら、みんな一人で死んでしまったのよ」
 姉は泣きながら、小刻みに震えていた。零れる涙を隠しもせずに。悲しみの表情は笑い顔と近似している。どちらも滑稽で、だが、悲壮だ。
「強がるんじゃなかった。格好つけているんじゃなかった。試しもしないうちから、どうせ言葉なんかで分かり合えるはずなんてないって突っ張って、禄に言葉も交わさなかったのよ。無駄な単語ばかり飛び交って、本当に大事なことなんて一つも話さないままだったのよ。手を握ってやることもしなかったわ。不安そうな顔に、キスの一つもしてやらなかった。泣き出しそうな瞳の上に、掌を添えてあげるくらいの、それくらいのことだって、しやしなかったのよ。言葉一つ、たった言葉一つだわ、無力かもしれないけれど、でもたった一言、あなたは一人じゃないんだって声をかけてやるくらいしか、私達には出来なかったのに、それだけのこともしなかったのよ。言葉一つ、無意味かもしれないわ、何をしても通じないかもしれないわ、でもやるしかないじゃない、やったらいつか通じるかもしれないじゃない。六十億のバベルタワー崩壊だって、心を込めて、ゆっくりと説けば、心一つくらい、伝わるものよ。試さなかっただけだわ。やらなかっただけよ。マイディア、どうか忘れないでね、私はあなたを愛してる。世界でたった一人の、私の弟よ。痛みや悲しみは代わりに請け負ってあげたい。喜びや楽しみは私の分まで分け与えてあげたい。今、あなたが苦しんで辛そうにしていると、私まで辛い。心臓が痛くなるわ。目の奥が、暗くなってしまうの。あなたが苦しいと、私まで苦しくなる。私達兄弟は孤独だわ、でも、あなたが痛いと、私まで痛い」