それ以来、エデンに死が訪れるようになった。それまで全ての動物は死んだことが無かった。停止した時間の中をたゆた っていた生き物達は死を知らなかった。ところが飛行機の墜落以来、彼らは突然死に急ぐようになった。
 庭の池には魚の腹が浮かぶようになり、木々の下には休憩するように跪き座った姿勢のまま骨となった牛がいた。ライオ ンはシマウマの咽喉笛を食い破り、熱い血潮の流れ出る弛緩した死骸にハイエナは舌鼓を打った。大きな蜘蛛の巣に羽虫が 捕まるようになり、長い八本の手足で獲物の羽を引き裂く姿が見られるようになった。のし歩くようになった象の足の下で は狐の子供が踏み潰されていた。あらゆる種類の死骸は葬儀されることも埋葬されることもなくそのままに捨て置かれ、や がて腐乱し、悪臭を放ち、銀蝿を誘き寄せ、時間と共に乾燥し骨となって、やがては風化し塵と化した。死後の経過に例外 は無く、全ての生き物はそういう風にして存在を抹消され、まるで初めからいなかったかのようになる。庭園は死臭に溢れ ていて、鼻が曲がり、空気を通す為に窓を開けようものなら吹き込んでくる悪臭に屋敷中がおかされ、その臭いはどれだけ 熱心に掃除しても取れなかった。
 庭に溢れる死骸は、第一衛生的でない。だが、片付けるには手間と気力が必要で、そのどちらもが私には欠けていた。唯 一埋葬したのは、どぶ水の匂いのする金魚のお花と大五郎が鉢の中で死んでいるのを見つけた時だけだ。沢山の骨と血と肉 を飛び越え、辛うじて死に汚染されていなさそうに見えた片隅の土を手で掘り起こし、埋めた。自分の爪が伸びていること 気付いたのはその時だった。
 それまで、このイギリス庭園では、爪が伸びることなど無かった。髪が伸びることも無かった。伸びた爪は時間を食いつ ぶした証明で、長くなる髪は死んだ誰かの時間を勝ち取ったという勲章だ。一瞬一瞬の時間を、誰かを犠牲にして得ている 。それらはとても忌まわしい目印だった。屋敷中どこを引っ掻き回しても見つからない爪きりを見限り、父の机の引き出し にしまわれていたナイフで土のこびりついた爪を削り取った。危なっかしい手つきのせいで、指先を切った。血が滲んだの を見たとき、そういえば自分の血の色を見るのがはじめてだということに気付いた。赤色は闘争の色だ。争わなければ眼に することも無い。
 冷蔵庫の中を見ると、全ての果物が腐敗していた。戦闘機が落下してくる前は、白い冷蔵庫の扉を開けるといつでも新鮮 な林檎や葡萄などがあって、それらは幾ら食べても減らなかったのだが、それが白っぽい黴をまとって嫌な匂いを発してい た。触るとぐじゅりと水気が指に纏わりついた。急に胃の辺りの喪失感を感じ、初めて空腹という状態を学んだ。飢えは殺 戮の合図だ。誰かを食わねばならない。生きていくことは誰かを食って消化することであり、負けたものは食われ、勝った ものは生存できる。庭園にはかつて飢餓など存在せず、餓えに見舞われるなど初体験だった。全ての生物は食べずとも生き ていけた、それは何をも踏みつけずに存在できたということ、何をも勝ち取らずに存在できたということ、闘争も戦争も無 い安らかな生存があったということだったが、現在ではそういうものは失われてしまったようだった。かつての庭園では、 虎と兎がお互いの毛繕いをしていたし、豹が豚と同じ木陰で眠っていることもあったが、今はライオンがシマウマの咽喉笛 を噛み切る世界だ。ハイエナが舌なめずりをしている。太陽の下では生き抜くための抗争だけが行われる。
 意識してしまった空腹はあっというまに脳の隅々まで支配し、餓えの余り目も眩む、足もふらつく、その時台所の戸棚の 下で生活している鶏の番のことを思い出した。唐突にある考えが頭をよぎった――――食わねばならない、何事も、どうや ったって殺し合いだ。無意識に足が戸棚の方へ向き、手が戸棚の取っ手に掛かった。その光景をまるで他人事みたいに見物 している自分がいる。開けると、中に鶏が二羽いたそのうちの一羽を鷲掴みにして引きずり出し、その勢いのまま首を指で 捻った。何も考えていなかった頭に、骨の折れる軽快な音が届いて、はっと我に返る。右手には余りに容易く骨の折れた感 触がこびりついていた。
 縊った鶏をまな板の上に乗せて、包丁片手に捌こうと決意したはいいのだが、どこからどう手をつけて良いやらさっぱり 分からない。羽毛をむしるべきだろうか、それとも頭を落とすべきか、むしろ羽と足を切り落とすべきでは。色々考えた末 に取り合えず内臓を捨てようと腹を掻っ捌く。首の下から柔らかい胸、膨らんだ腹、肛門という順にまっすぐ包丁を突っ込 み乱暴に皮を裂いた。包丁の切れ味は錆びて鈍く、捌くと言うよりかは引き破ることになる。すると、切り裂いたところか ら何か白くて丸いものが出てきた。なんだろうかと手にとって見ると、それは、赤ん坊の握りこぶしくらいの大きさの、卵 だった。
 思い至ることがあった。成長の無い庭園では、誕生も無い。これは、エデン始まって以来最初の生命の萌芽だった。生ま れるということは、何かが失われた代わりに何かが存在するようになるということであって、だからここには誕生がなかっ たし、今では誕生が発生しようとしている。そして、この卵は、多分、誕生の創始のはずだった。この卵、小さく、つつけ ば割れそうに脆い卵、親鳥の生命をむしりとるようにして生まれてこようとしていた、まっしろな卵の意味するところは、 そういうものだ。そして私は、長らく使っていなかったせいでさびついた包丁で親鳥の腹を掻っ捌くという世にも野蛮な方 法で、誕生を阻んだのだ。なにか胸をつくものがあった。私が今日を食いつなぎ明日も足を踏みしめて立っている為に、雛 が産声をあげその細足で必死に大地を蹴っただろう未来は奪われた。そういうことだ。それはとてつもなく恐ろしく罪深い ことのようにも思われたが、同時になんでもないことのようにも思われた。
 卵を器に割りいれると、どろりとした中身が皿の上にあった。私はそれを飲んだ、一息で、躊躇いなく。何故ならとても 腹が減っていたので。咽喉が鳴ったし腹も鳴った。空腹すぎて思考は濁りきっていた。勢いよく飲み干したため、唇の端か ら飲みきれなかった卵が零れたのを指でぬぐって舐めた。美味かった、とても美味かった、今まで食べるともなく食べてい た果物なんて目ではなかった。もっと食いたいと思い、足の肉を千切りとって生のまま口へと運んだ。これも美味かった。 一度がっつきだしたらとまらず、そのままあちこちの肉を指で千切って、血の滴るままを食った、食べても食べても腹は鳴 ったし空腹は収まらなかった。味などあったものではないが、にもかかわらず異様に美味しかった。状況の浅ましさに気付 いてはいたが、空腹の嵐の前にそんな些事はなんでもなかった。肉にがっつき歯の鳴る音で、打ち消された。