その時パトリックだった私にも、当然ながら過去があり、幼少時代がある。パトリック少年の庭園の悲劇を語ろう。
 幼い私は生き物を愛した。最初に手に入れたのは夜店ですくった二匹の金魚。赤いのをナンシー、黒いのをシドと名づけた 。次に飼ったのは黄色いインコ、名前をイジー。それから犬と猫それぞれ数匹、あっという間に壮大なイギリス庭園は動 物に埋め尽くされ、私はそこいらで生き物の吐息を感じる屋敷で育った。
 犬は父がくれた。「マイディア、寂しくないようにこれをあげよう、おまえが誰より愛してやれ」そう言って子犬を手渡 した父は詩人だったが、その日を境に飛行気乗りになって戦場を飛び回る英雄になった。「詩人になりたい、反対するなら 飛行気乗りになってかっ飛ばして死んでやる」そう言って祖父母を脅して詩人になった父は、ずっと長い間紙とインクで人 間同士の心を繋ぐべくヒューマニティー溢れる詩を書いていたが、苦節十数年、とうとう言葉の破滅を知って飛行気乗りに 転向したのだった。当時、飛行機なんかに乗る輩は自殺志願だと揶揄されたものだが、実際まだまだ黎明期だった鉄の鳥は すぐにエンジンが火を噴いて墜落し、父はまもなく死んだ。遺品として残されたメモには父の失望と諦観の言葉が書かれて いた。「バベルタワーは崩壊した」「敵を憎め」「暮色遠し」。
猫は母がくれた。「マイディア、ママだと思って可愛がってやってね、名前はキキよ」そう言って猫を置き去りに母は蒸発 した。詩人などと言う著しく稼ぎの少ない職についていた父の代わりに一家の口を鬻ぐべく母は飲み屋で歌を歌っていた。 もともと音楽に長けた人で、歌が上手いという以上に、彼女の作る曲は人の心を打ったらしい。子供の頃から五線譜と親し かった彼女の書く曲は、悲哀の中に情緒があり、痛みの中に救いがあり、父の作った詩を載せて歌えば誰もが涙を流さずに はいられないものだったという。ただその才能が発揮されたのは二十歳の時まで、それ以降に作られた曲はクズのようなも のだと人は評する。大人になって楽園を喪失したのだ。追放された彼女にはもう二度と人の心なんて判らなかったしそれゆ え曲なんて作れるわけも無かった。技巧に走った母の曲を聴くものは居なくなり、やがて場末で蓮っ葉な衣装を着て歌うよ うになった母はふらりと街から消えていった。音楽は、文学や絵画よりも高次な感情を、生で伝えることができるのだとよ く母は言っていた。「第九を聞きなさい、あの曲には神が居る。あのメロディーは神の声よ。私達の失ってしまった故郷の 音」。
屋敷には徐々に人間が居なくなっていった。それに反比例するように動物の姿が増えていった。台所では鶏が鳴いていた。 玄関には鰐が寛いだ。庭のプラタナスの木々をジラフの群れが食んだ。父母の寝室には人間の変わりに大きな犬とふてぶて しい猫が横になり、床の上でイグアナが番をつくった。食卓には私と狼と孔雀と狐とが同時に席について食事を共にした。 池でフラミンゴが飛び立つのを見ながら山椒魚に餌をやった。
そこはエデンだった。互いに殺傷を好まない動物達が大勢いて、食い合うこともせず尊重しあって共存していた。全ての動 物は概ねあらゆる出来事に無関心だったけれども、むやみやたらに牙をむくことも爪をたてることも威嚇の声を洩らすこと もせずに、ただちらりと穏やかな目を向けてそれでお終いだった。庭園での事なら、見聞きせずとも理解していた、何故な ら私達はその大きなイギリス庭園で一つの生命体だったので。もう屋敷には人間なんて一人もいなかった、私もその時まだ 人間では無かった、その生活で言葉を使わなかった私は、言葉を操る唯一の生命を人間と言うならば、人間というカテゴリ に当てはまらない。庭園には言葉の頭に必ずつく主語がなかった、張り合う自我も無かった、一つの溶解した一体感がある だけで。
幼い一時期をエデンで暮らした私には、その時が確かに、蜜月だった。生まれて死ぬまで、たった一度だけ過ごした、あれ 以外に私は満足も安息もしらない。