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 母は父の死の事情を知らずに死んだ筈だ。けれども彼女は、自分の夫が飛行機乗りになって同僚のつばの混入しているホッ トチョコレートを手にして途方に暮れていたその日のうちに、エンジンから火を噴いた飛行機に閉じ込められて死んだことを 知っていた。その事実は、だが、驚くに値しないだろう。私も、父の死や母の死や、その他多くのことを実際に見たわけでも ないのに知っている。それと同じことで、真摯に向き合えばたいていの事は知らずに知ることが出来るというものだ。
 父の死んだ次の日、母は酒場で真っ赤な安物のサテンのドレスを着て、マイクを握り、お決まりの戦争称揚歌を歌わずにこ う宣言した。今この瞬間イギリス国民が攻撃している全ての敵に幸いあれ、私は私を生んだイギリスという国家を永遠に憎む 。
 母の持論は、その戦争当時大勢のユダヤ人が殺されたあの収容所に根ざした考えだった。曰く、もっとも善き人は最初に死 ぬ。蟻地獄にとらわれた蟻が生き残る為には同じく漏斗状の砂の中に沈んでいく仲間を踏み台にして地獄から抜け出すしか生 き残る術がないのと同様に、その腐乱臭のはなはだしい収容所でも自分が助かる為に仲間を売るのが常套手段だった。ガス室 行きを選抜するパレードが行われたならば、なんとかして老婆か怪我人の横の席を獲得せねばならない。そうしたならば、選 抜員の目が老婆か怪我人へと注がれることで自分への注意はそらされて生き残ることが出来る。或いは食事係と仲良くならね ばならない。そうしたならば、食べねば死ぬ強制労働の最中で一人だけ具のあるスープを飲ませてもらえる。自分の後ろに並 ぶ人間の食べるものがなくなってでも自分の食事は確保せねば、残された道は窯へと向かうただ一つとなる。或いは、壊れた シャベルをつかまされたくなければ、仲間の殺到するただ一つの丈夫なシャベルを、殴り合いをしてでも手に入れなければな らない。強制労働がこなせなければ煙突の煙になるしかないからだ。
 自分の生存の為に踏み台にされるだろう多くの人間の痛みを想像して涙を流す、そういう善良な人間は、蟻地獄では生き残 れない。戦え、さもなくば死ね。戦えない人間は老婆や怪我人と一緒にガス室だ。
 母はよく言っていた。ここも、そんなに変わらない。二十歳まで生き残ったなら、みんな悪人よ。どこにも善人なんかいや しない。