世界から切り離された瞬間を覚えている。あれは五つくらいのときだったことと思う。空を眺めていると、一条の飛行機 雲が空を横切っているのが見えた。その一途な直線は私の心をいたく捕らえたので、母の服の裾を引っ張って尋ねた。「あ れはなに?」
「あれは、飛行機雲っていうのよ」
 母の回答に私は不満足だった。名前を聞きたかった訳ではない。私が母から欲していたのはもっと美しい言葉、それ一つ だけで充足してしまえるような言葉、日常の目からは隠されている世界の秘密を解き明かすような言葉、そういう魔法を期 待していた。私は重ねて質問した。「あれはどうやってできるの?」
 すると母はぎくりとした表情をした。そして焦りの色を浮かべた眼を宙に泳がせて、言葉を不穏にどもらせた末に、曖昧 な笑みを浮かべて口先で言葉を操った。「飛行機の後ろに雲ができるの。そういうものなのよ。そういうふうになってるの 」
 その途端に、どこにも欠陥など無い完全な存在だったはずの飛行機雲はただの水蒸気の固まりに成り下がった。クリーム 色や淡い桃色や薄い桔梗色を纏っていたのが色を失った。かけたところなんて何一つ無かったはずの馨しい直線はどこかに 行ってしまった。私は、当然のように感受していた懐かしい故郷を見失ってしまった。
 当時、母に尋ねたら何でも解決するのだと思っていた。母は何でも知っていて、私の世界の神だった。母の手にかかって 解決しない問題など無かった。どんな時であっても私の味方で、苦しいときやつらいときには優しい魔法を使って私を助け てくれた。母に見守られている世界で、全てが自分の思うままになるのだと信じていた。そういう子供時代の終焉は、私に は何の前兆も与えられずに、いとも呆気無く、唐突に訪れた。
 世界から切り離された瞬間を覚えている。それまで私と世界は一体だった。私は世界であり、世界は私だった。世界は全 て私の思うままであり、私は花であり、蟻であり、木であり、草であり、水であり、空であり、あらゆる全てだった。私と 他の誰かの区別などつける必要など無かった。私は私であると同時に母であり父であり友人であり先生であり、そこに境界 線を引く必要性は最初からありえなかった。私は一にして全であり、それ故に区別や境界線は不要だった。世界は現状のま まで楽園だった。
 飛行機雲の正体を知らない母は、神ではなかった。その時に私は、自分が知らず知らずのうちに犯していた重大な過ちに 気付いた。世界は私と同じものではなく全くの別物であるということ、自分は広大で無慈悲な世界に放り込まれた一匹の鼠 に過ぎないということ。見失ってしまったかつての世界はもう二度と、私の元へは戻ってこないだろう。
 世界から切り離された瞬間を覚えている。あらゆる種類の悲劇はあの時から始まった。それ以来、私は現在に至るまで一度 も、自分が誰なのか分かった例が無い。