俺は死体の側にしゃがみこんで、その顔を覗き込んだ。自分の顔は鏡でしか見られないので、いざまじまじと見つめる機 会に恵まれると、本当に自分の顔なのか分からない。目があって鼻があって口がある。どこにでもあるありふれた顔だった 。自己判断の確定的な要素は右眉下の黒子だけだ。
 死体の顔に触れた。頬のラインを指で触って確かめた。この手の下に自分の死体があって、それを触っている自分が居る 。俺は誰だったんだろう。どちらの俺も仮の自分でしかないように思われた。まるでどちらも精巧な機械で出来た偽者みた いだった。
 どちらも自分に相違ない。そもそもが、いつも生きているという状態にひどい違和が付きまとっていた。これが確たる自 己だという本質を得たことが無い。何をしていても他人事に感じる。自分と言う他人がテレビに映し出されていて、それを ただ漫然と見ているような感じがした。今、自分と言う他人がテレビの中でトラックにはねられて死体になっている。それ を画面の前で漫然と俺は見ている。現実感など少しも無かった。決まった流れで進行していく劇に参加しているのだ、演技 はするが舞台上の科白に心から同意しているわけではない。舞台上の他人の死に、心を痛めることは無い。自分と言う役者 が死んだ。そういう風に完成していく芝居だ。
 俺は誰だったんだろうか。