ある日唐突にやってきた親友は、無言のまま俺の手を引っ張って、外へと連れ出し、通りを抜けて交差点へと辿り着いた 。その間親友は一言も喋らなかった。どこへいくのか、一体どうしたのか、俺が何度も話しかけても、彼は無言のままただ 手を引っ張って歩き続ける。その手は少し汗ばんで冷たくなっている。さっきちらと振り返った彼の目は不自然に強張りぎ ょろぎょろとあてどなく揺れ動いていた。鬼気迫る様子に俺は何も言えない。右手を引っ張られるようにして歩く足は時々 もつれかける。それと言うのも彼の歩く速度が早すぎるからなのだが、やはり俺は何も言えない。
 その日は蒸し暑く風も吹いていなかった。湿気を含んで停滞する空気は淀み、呼吸するのにさえ不快感が伴った。意識が 朦朧としそうな暑気の中、街路樹の影もない場所を延々と歩かされ続けるのは苦痛だった。文句一つ言わなかったのは、い うほどの元気も出なかったからかもしれない。つれてこられた交差点には炎天下の中人だかりが出来ていて、彼は俺の手を しっかりと握り締めたまま片手で人垣を掻き分けてずんずんと円の中心へと向かう。俺は人いきれにもまれながら、交じり 合った汗のにおいや髪の毛や肌の感触や、そういうものに対して反応するほどの気力も起こらず、ただ引っ張られるまま何 度も人にぶつかる。すると彼が急に止まり、俺は勢いを殺せずそのまま背に身体をぶつけた。彼の服の背中部分は汗じみて いて湿っている。少なからず八つ当たりじみた気持ちが湧いてきて、彼を睨みつける。立ち止まった彼は振り向かなかった 、あくまで前を向いたまま、ぽつりと「これを見てくれ」と言った。
 彼の背で何も見えなかったので、身体をずらして前を見た。すると、目の前の地面に一人の男が臥して倒れていた。ただ 倒れているだけではない。足が変な方向に捻じ曲がって、耳や鼻から血が流れ出ている。血溜りの中、どう見ても絶命して いた。生々しさに正視しかねて目をそらす。人垣は、この遺体を中心に一メートルほど間隔をあけて出来上がっていた。
 ぽつりと彼が言った。
「死ぬところを、見ちゃったんだ」
 トラックがやってきて、身体が宙に飛んでくところとか、見ちゃったんだ。そう良いながら彼はようやく振り返って俺の ほうを見て、定まりかねる視線をあちこちにやりながら、笑うのに失敗したような表情でこう続けた。頼む、顔をよく見て くれ、顔を。丁度死体は此方に顔を向けていた。よく見てくれ。それで、誰の顔に見えるか、教えてくれ。誰かの顔に、見 えないか。
 彼が何を言いたいのか分からなかった。死に顔は変わるって言うし、と彼はなおも呟いていて、一体どういう意図で喋っ ているのか推し量れない。顔を見たが、どこにでもいる、何の変哲もない普通の顔だった。あちこち擦っているし血は出て いるしよく分からない。それで正直にそういうと、彼は今にも痙攣しだしそうな引きつった表情で言った。俺には、あの死 体が、おまえにみえるんだ。おまえが死んでるように見えるんだよ。あれ、おまえじゃないのか。おまえ、死んじまったん じゃないのか。
 淀んで湿気を含んだ熱い空気に頭の中まで汚染されて、自分が何を考えているのかさえ分からない。頭が回らないので、 今自分が何を考えているのかも分からない。目を凝らして死体の顔を見つめた。鼻から流れる血や、顔の左半分に出来た擦 過傷が邪魔で判然としないが、それでもじっと見つめるうちに、彼の右眉の下に黒子があるのに気付いた。目立つ大きさだ 。俺の顔にも同じものがある。幼い時分から鏡の中に見慣れたものだった。流れる汗が目に入って、思わず目を閉じた。
「あれは、じゃあ、俺の死体なのか」
 意識が朦朧としている。吸い込む空気が濁っている上に熱い。体中が汗でぬめついているのが分かる。親友の鼻の頭や額に も汗が浮いている。現実感が少しもなかった。真夜中に見る悪夢みたいに、地面に脚のついている感覚がちっとも無い。空 気がとても粘着質だ。死んでしまった。それは納得するべき真実だった。明確な論理の帰結でもあった。死体の右眉の下に は目立つ黒子がついている。その証拠の前にはどんな言い訳もきかない。
 親友は地面に視線を落としたまま、空ろな口調で、言った。
「俺、おまえの死ぬところを、見ちゃったんだよ」