例えばの話。

この世界に神など存在するのだろうか。

別に信じているわけではない、もしかしたらという仮定上での話。

神。

即ち運命。

或いはアカシックレコード。

















「ぐ…っぎゃあっ…!」



真夜中の公園に男の悲鳴が響いた。

足をもつれさせながら逃げる男。

その左脇腹に深々とえぐられた傷。出血。

その必死で逃げ惑う男を冷静に見つめている自分がいる。

手の中には――真っ赤に濡れたナイフ。



「たっ…助け…っ!!」



今夜は朔月だった。

公園に備え付けの街灯が薄暗く、世界を照らす。不安定に点滅しながら。

寿命間近。





やがて、血まみれの男は力尽きたのか石ころにつまづき、受け身もとれずに顔から地面につっこんだ。





なんて無様で醜い。

人間の生きようとする姿の、なんて醜悪な事だろう。

この僕も含めて。

幻滅だった。とうの昔から、だけれども。





頭を軽く振って、血まみれのナイフを右手に、男に近付いた。

ゆっくり、一歩一歩男との距離を縮める。

男は恐怖したように足をもつれさせながら立ち上がりまた走り出した。

途中何度もつまづき、しかしめげずに再び駆け出し。

だが左脇腹の傷をかばって走るのには限界がある。

男はジャングルジムに縋り、肩で息をした。瀕死の老人のごとき、ひきつったような喘息音がひどく耳にさわって、五月蝿い。

傷からの出血量と僕が追い掛けているという重圧は、思っていたよりも男の負担になっていたようだった。

だからといって哀れむ気持ちは毛頭無い。

所詮、人間は自分の生存とその権利しか考えられない、その程度の生き物という事。

この自分も、含めて。

すべての人間は救済を求めるに足るだけの物を持ち合わせてはいない。

男の立ち位置まであと三歩。男にはもう逃げるだけの足場はない。



「ひっ…!」



男の呼吸音。

足裏の砂利。

剥げたペンキのジャングルジム。

恐怖に歪む男の顔。

刹那に光を乱反射するナイフ。

血の緋。

返り血を吸って重く黒ずんだ服。

血に濡れた両の手。

見開かれた男の両眼。

















今夜は今夜は朔月だった。

公園に備え付けの街灯が薄暗く、世界を照らす。不安定に点滅しながら。

寿命間近。

ついたり消えたりする灯りが、世界をまるで大昔のモノクロ映画のように変え。

そのせいで、歪んだ男の顔にも自らの手に高く掲げられたナイフにも、まるで現実感は無く。

目覚めの無い夢のような心地のまま。

悪夢の中。

僕は、確かに優越感を覚えながら。

『13日の金曜日』のように。

『羊達の沈黙』のように。

『セブン』のように。

ジャック・ザ・リッパーのように、

リジー・ボーデンのように、

ウィリアム・パーマーのように、





















高く掲げたナイフを、



















加速をつけて、振り下ろした。







































例えばの話。

この世界に神など存在するのだろうか。

別に信じているわけではない、もしかしたらという仮定上での話。

神。

即ち運命。

或いはアカシックレコード。

もしも、そういう存在があるのだとしたら。





何故、この愚かな僕を、罰してくれない?

































ざくっ、ざくっ、

ざくっ。



ついさっきまで生きて呼吸をしていた肉塊に跨り、僕は無表情に、ナイフでぶよぶよとしたそれを串刺した。

何度も、

何度も、

手が血でぬめっても。

頬に血肉の飛沫が飛び散っても。

何度も、





























ぐしゃ、ぐしゃ、と

咽喉。

右上腕。

下腹部。

左掌。

両の眼球。

舌。

ふくらはぎ。

足爪。

額は頭蓋骨が硬すぎてバタフライナイフでは一撃でかち割れず、数度眉間を刃で叩き、ようやく割れた。

腹部をかっさき、自分の血肉を切り裂く代わりに男の内臓をかき回す。

ぐちゃ、という音に嫌な感触。

胃の内容物や人体を構成していたモノが異臭を放つ。

とても、数分前までは人の形をとっていたとは思えない、肉塊。

なのに。

なのに、こんな唾棄すべき物を見ても、こんな醜悪な物を見ても、こんな気持ちの悪い物を見ても。

何の感慨も沸かない。

心臓の鼓動一つ、早まらない。

どころか、脳髄は冴え渡っていくようですらあるし、殺戮する右手はいつもより滑らかに動作している気さえする。





驚く無かれ、自分はもうこんなにも壊れきっている。





切り裂くべきは、突き刺すべきは、かち割るべきは、野晒すべきは。

この、自分であるというのに。

































ふと、空を見上げた。

月の無い夜、凍えるように暗く冷たい空の下。

僕――――――鷹塔亜澄、十七歳。

愛すべき、真夜中の青春だった。







next→