幼い頃、寄せた期待は、裏切られた事しかなかった。

 まだ十に満たなかった頃、ボール投げの的になったことがあった。立ち尽くした私の元に、女の子達は 笑いながら、ボールを次々にぶつける。子供の手に余る大きくて硬いバスケットボールはとても痛かっ た、違う嘘です、あまり痛くなかった。子供の、女の子の力で投げたボールなどたかが知れている、そ れでも、私は怖かった、怖くて、ただ地べたの上にしゃがみこんで腕一杯で頭を庇った。女の子は実に 楽しそうで、あまりに普段どおりで、私は怖かった、ただただ怖かった。人間は、たやすく人を傷つけ ることが出来る。
 人に寄せた期待は、裏切られたことしかなかった。女の子は、優しい顔をして、綺麗な声で笑うくせに 、人にボールを投げる手は容赦なかったので、私の対人観はそこでちょっとした転回を迎えざるを得な かった。人は人を傷つけることが出来る。人は人を裏切る。人は、暇つぶしで、人に石を投げるような 生き物だ。
 暇つぶしで、石を投げる。ちょっとしたゲームだった。日常の退屈なゲームに飽きた女の子達は、少し の刺激を求めて、ある提案をした。『ただの鬼ごっこじゃつまらないから、ボールを当てられた人が鬼 になろう』。じゃんけんに負けた子がボールを持った。あるきっかけで、そのボールは私に当てられた 。人よりのろい所のあった私はあっけなく身体でボールをうけた。その瞬間、どのようにして引き金が 引かれたか知らない、直ぐ近くにあったボール籠からバスケットボールを取り出してある子がボールを 投げた、的は私、石は投げられた、そちこちに散っていた女の子が集まってきて、ボールを投げ出した 、硬いボール、痛いボール、的は私、石は投げられた。少し刺激的な暇つぶし、的は私だった。
 私の対人観はちょっとした転回を迎えた。長じて私はかくのごとく信じるようになった。人は、常に、 人を裏切ろうとしている。他人は、内心で、常に誰かの事を軽蔑しようと舌なめずりしている。人は私 にとって、得体の知れない恐ろしい生き物であると認識された。

 元来、不器用な子供だった。
 長縄もお手玉も折り紙も出来なかった。身体はけっして思ったとおりに動いてくれなかった。女の子の 輪の中に入るのに必要な遊びの技術が徹底的に欠けていた。
 意志を疎通させるのもたまらなく苦手だった。思ったことを、喋って、伝わったことがなかった。一生 懸命に語れば語るほど、どもり、つまり、相手を苛立たせる結果に終わった。大体、経験した素晴らし い出来事を、子供の拙い言葉で表現するのが無理だった。
 では言葉以外で伝えることは出来ないかといえば、それも出来なかった。表情に乏しかった子供は、笑 うことも下手くそだった。凡そ子供らしくない、強張ったような、おびえたような、困ったような顔で しか笑えなかった。一度、自分の数少ない笑い顔の写真をしげしげと見つめて研究した事がある。私の 笑顔は何となく人の気持ちを削いでしまうようなところがあった。どことなく生意気で、見苦しく、正視 に耐えないようなところがあった。
 考えなしの癖に、無邪気に振舞うことも出来なかった。器量はいい方ではなかった。大人に好かれる性 質を備えてはいなかったけれど、子供同士で交じり合うには余りに身勝手で、結局人に好意をもたれる ような素質がなかった。人を失望させることしか出来なかった。それでなければ、怒らせるか、馬鹿に されるかだった。
 シビアな子供同士の付き合いの中で、私は媚びるかへつらうか追従するか、今から思えば最低の交際手 段に頼っていた記憶がある。心映えの悪い子供、気性のねじれた子供、何と言ってもいいけれど、自分 に適切な形容詞の中に良い言葉が見当たらない。

 人はたやすく石を投げる。キリストは、かつて罪を犯したことのなかった人だけが石を投げよといっ た、人はそんなことは考えない、石を投げる、暇つぶしに、ちょっとした刺激を求めて、犠牲者が苦 しんでいるのは見ていて愉快な気持ちがするのだと誰かが言った。
 幼くて他愛無い心は、人は怖い生き物なのだと思った。私はもうそんな怖い生き物とは係わり合いにな りたくなかった、一人で生きていたかった、もう石もボールも投げられたくはない、まして投げたいと も思わない。
 不器用な子供は不器用な解決手段しか用いることが出来なかった、私は仕方がないから不器用な解決手 段で以って問題を退けようとした、誰とも言葉を交わさず、かかわりを持たず、出来れば一生誰にも頼 らず頼られず、生きようと思った。馬鹿にするのもされるのも、貶めるのも貶められるのも、同様に恐 ろしかった。私は一人がいい。
 一人で生きるための術を、私は一つしか思いつかなかった。眠ること、ただ眠ること、意識を失った まま目覚めないようにいること。私は、ある日、床についた。そして、もう一生目覚めないでいよう と誓った。不器用な子供は不器用な解決手段しか知らなかった。私は眠ることでしか戦いたくなかっ た。

 人間は獣なのだと誰かが言っていた、荒野の獣、自分の空腹の為に噛み殺すことを厭わないような。私 は獣を恐れた。人間の中の獣は石を投げることを躊躇わなかったから。
 それでも、獣であるだけではないのだと、誰かが教えてくれた記憶がある。獣なだけではない、人はい つくしむことも、いとおしむことも、かなしむことも、だきしめることも出来るのだと、諭してくれた 誰かの声は、優しくて、温かくて、私は泣いてしまいたいと思った。その人の胸に涙を落として、恐ろ しいこと怖いことを全て打ち明けてしまいたいと願った。けれどもそういう美しいことを、眠りへと急 ぐ私は思い出さなかった。諭す声を私は忘却した。いつくしむ心、情けをたれる心を失ってでも、私は 獣を殺してしまいたかった。人間に潜む肉食獣は、歯をむいて威嚇していて、その奥にあるはずの神聖 なものは見えなかった。私は眠ることで、獣を殺すと同時に、気付かぬうちにその綺麗な性根も掌から 零してしまった。

 一人で生きていようと思って、その方策が眠ることくらいしか思いつかず、私は眼をもう永遠に開くま いと決心して、胸の上で手を組んだ。それが祈りの姿に似ていると思ったけれど、縋る先は思いつかな かった。窓の向こうに世界が見えた、広い透き通る空が見えた、私はそういうものを放棄したのだと思 い至って、深くなるまどろみの中で、手を伸ばしたいと思った。


獣に群れて生きているくらいなら、いっそ 、機械になってしまいたかったと、密かに心が泣いた。