いつも口ずさむ詩句がある。
「美しき多くの人の、美しき多くの夢を、」
口をついて自然に出てくる詩句である。浮船はこの短い言葉を繰り返す。考えずとも言葉が口か
ら零れる。
「縫ひにやとらん。
縫ひとらば誰に贈らん。贈らん誰に。」
心は水淵の底である。耳にこびり付いた言葉は
何度も心の奥で再生されている。『死んだって忘れないよ』。『だから死ぬまで一緒に』。
死んだって? 死んだって忘れない 本当に? 貴方は死んで、幾度も幾度も生まれ変って、畜
生になっても、餓鬼になっても、阿修羅になっても、本当に忘れない?
死ぬまで? 貴方はいつ死ぬの 五十年後 十年後 三年後? それとも 明日? 私より先に
死ぬの それとも後? もしも私は残されたら、どうしたらいいの? 貴方が残した情を、どう
始末したらいいの?
貴方が忘れてしまったその時は?
病院の磨き上げられた床に反射した光が、彼の笑顔を照らしていた。昨日は彼は調子が良く、ベ
ッドの上で枕に腰掛ける事が許されていた。みんな心配しすぎなんだ と彼は笑った。僕は何処
も悪くない。彼はそう言ったが、青白い光がその顔に斜にかかっていて、浮船にはまるで死人の顔に
見えた。
僕は何処も悪くない―――――。
身体は健康である。何処も悪くない。昨日の彼は、自分の何処が悪いのか知らなかったようだ。
昨日の彼は。
死んだって忘れないなら、生きている間に忘れてしまったその時は? 貴方の情を、私は一人で
殺したらいいの 貴方が忘れてしまったその時は? 昨日の貴方はあんな風に笑って、冗談みた
いに約束を口にしたけれど、もしも明日の貴方が約束を忘れてしまったら、その時私はどうすれ
ばいい? 無かったことにされた約束は、どうしたら報われる?
彼の病は重い。原因のまだ明瞭でない神経性のその病は、治療法も不明である。特効薬も、効果
的な手術も無い。病状は日々進んでゆき、いつの日か、死んでしまう。緩慢な死の病だ。
病状はたった一つである。
「美しき多くの人の、美しき多くの夢を、」
もしも明日、貴方が私を忘れてしまっていたら、
「縫ひにやとらん。縫ひとらば、誰に贈らん。」
『死んだって忘れないよ』『だから死ぬまで一緒に』 私は 忘れられても離れない 死なれて
も忘れない でも、でも、
「贈らん誰に。」
彼の顔に宿る、病魔の青い影。リノリウムの白い床。病院中に満ち満ちた死の匂いは、驚くほど
彼に染み込んでいた。彼の笑顔は、青い闇を背負っていた。あと何日、あと何日彼は昨日のこと
を覚えていられるだろう。 死んだって忘れない と言った事を。
「美しき多くの人の、美しき多くの夢を、」
一日だって長く彼が夢見ていられたら良い。世界中の美しい夢を、私は彼に贈りたい。あと幾日
、無為な願いでも、叶うよと言って笑ってしまえば、彼の夢は美しいままだ。浮船は病院へ向か
う。何もかも青白い影を背負った彼は、昨日のことを覚えているだろうか。
引用:夏目漱石「一夜」