......白いワンピースを着た女が、緑深い森を行く。
靴の下に腐葉土の感触を感じる。歩く度に足が僅かに沈むのに、靴が汚れるのが気に掛かる。森は、視覚よ
りも嗅覚に緑の存在を訴える。若い緑の匂いが鼻につく。森には、いじましいまでの生命の匂いが満ち満ち
ている。浅ましいまでの生きようとする意志、死を拒絶する生命の野放図さ、あくまで生に拘泥する執念、
森の匂いはそういう醜さを連想させる。それが厭でならない。
森を歩く。この先には沼がある。綺麗な水と澄んだ泥の沼がある。そこにあの人が沈んでいる。あの人が、
私を待っている。白いワンピースは死装束だ、私はあの人に、全てを捧げると約束した。
ある日、彼が家を訪問してきたのが最初だった。
彼はこう語った。
「全て思い出したんだ、何もかも思い出した。聞いてくれ、僕は全てを知った、沢山のことを思い出した。
運命だよ、奇跡でもある、それにそう、宿命だ。聞いてくれ、そして、信じられないだろうが、信じてくれ
。僕が語ることは真実だよ、本当のことなんだ、君はいずれ信じずにはいられなくなるのだろうけれど。夕
べ、夢を見た、そして悟った。ねぇ、僕らは長い間何度も何度も出会っていて、その度にお互いに惹かれあ
って、最後には殺しあうんだ。そういう、運命なんだよ! 何度も生まれ変って生を得るたびに、僕らは出
逢って、惹かれあい、そうして殺しあうんだ。なんて運命の奇跡だろう、なんて悪戯だろう、ねえ信じて、
僕らの運命を、最初から定められている仕組みだ。君は何を言っているのか今は分からないかもしれないが
、いずれ分かるよ、そのときが来るんだ、もうすぐ」
口を挟むまもなくそういって、彼は紅潮させた頬に笑みを見せた。私は彼が狂ったのだと思って恐ろしくな
り黙って彼を閉め出した。
彼がいつ死んだのかは今もって知らない。ある日郵便受けに入っていた手紙を見て初めて彼が死亡したこと
を知ったのだった。彼が死の直前に書いたらしい手紙は遺書の体裁が取られていたから、もしかすれば彼は
自殺したのかもしれない。
早く死ななければならなかったから、と文面にはあった。何度も何度も生まれ変る生で出逢う、だから次の
生で再会する為には二人が確実に死ななければならない。僕は寧ろ今生で結ばれるよりは数え切れぬ未来の
再会に心を馳せたいと思います、とあった。
僕の遺骸は、Y県山中の小沼に埋めてもらうことになっています。そこは著名な地ではありませんが、地元
では水芭蕉の群生地として知られているそうです。僕の身体は泥に溶け込み、水芭蕉の根に抱きしめられ、
いずれ美しい白の花を咲かすでしょう。初夏が盛りだそうです。是非御覧にお越しください。僕は既に死ん
でしまいましたから、次は貴方の番です。どうか、貴方に相応しい死に方をしてください。その場に居合わ
せることが出来ないのが残念です。
追伸。繰り返す出逢いの中で、何度も貴方に告げた言葉を、貴方に差し上げます。
この身の許す限り、この身に能う限り、
すべて貴方に捧げよう。
―――――『すべて貴方に捧げよう』。
その言葉を目にした瞬間、視界が白くなった。動悸が高鳴り、身体が冷たくなって、耳の奥がきいんと鳴っ
た。すべて貴方に捧げよう。首裏の毛が逆立った。頭の奥でプロペラの回転する音がする。徐々に回転数を
上げて、羽が風を切る音、速く、早く速く速く。全て貴方に。貴方に。目が見えない、耳も聞こえない、世
界が崩壊する音がする、大地が震える、足が萎えて地面に座り込んだ。
すべて貴方に捧げよう。
そうだ知っている、私はその科白を知っている。何度も何度も囁かれた言葉だ、ある時には力強く、ある時
には優しげに、ある時には蔑むように、あの人に言われ続けた言葉だ。彼は狂ってなどいなかった、狂気で
はなお、彼こそが真実だったのだ。世界に何度も生まれ、その度に惹かれあい、そうして殺しあう運命の相
手だ。友として、敵として、あるいは兄弟として、親子として、長の年月幾たびも私は彼を殺し、また彼に
殺されてきたのだ。
考えてみれば、彼は己の運命を思い出したから自殺したのである。来世の幸福の為に死んだのである。であ
るから、婉曲的には私に殺されたということも可能であろう。未来の私の幻影に殺されたのである。私が今
死ぬとすれば、それは誰に殺されることになるだろう。
初夏には季節が早い。まだ水芭蕉は咲いていない。彼の花は清い水と肥沃な泥土からしか開花しないという
。彼の身体からするりと伸びた茎が地上で花開くことを空想するのは厭な気分ではない。白い花は彼によく
似合う。
私は彼に殺されたい。彼に殺されるためにはどうしたらいいだろう。彼の身体の溶け込んだ沼に沈んで死ぬ
ことが出来れば、それは彼に殺されたことになるだろうか。そうして再び巡り合う、此処ではない場所で、
今ではない時に、殺しあうほど惹かれあう運命だ。
死ぬのは恐ろしくない。次のあの人に会える確信が、私を強くする。泥土に溶け込んだ彼の身体で窒息死で
きるとしたら、それは確かに幸福だ。
すべて貴方に捧げよう。この身の許す限り、この身に能う限り―――――私の身体はいずれ沼に溶け込む、
そうして先に泥土と一体化していた貴方と原子レベルの合一を果たす。二人の身体を包含する泥土は水芭蕉
の花を咲かす。
すべて貴方にささげよう。森の匂いは生命の匂いだ、私には馴染まない。小沼の冷たさは死の温度だ、泥を
飲み込んで体の隅々まで泥が染み込んで、私は死んでゆく。