ぴか  ごろごろ

稲光が空を明るくしたと思ったら、腹の底に響く音が天地を揺るがせた。分厚い灰色の雨雲が 空を隈なく覆ってのっぺりとそこにあるせいで、昼間なのにとても暗い。稲光の走るその瞬間 だけ世界が明るくなる。
最初の雷の音がしたと同時に突然雨が激しくなった。傘をたたく滴がノイズのようで、時折の 雷の他には何も聞こえない。土がぬかるんでいて足をとられる。
邪魔だったので、傘を捨てた。靴が重かったので、裸足になった。
天を見上げる。雨の粒が、白糸に通した真珠のようで綺麗だ。また稲光が瞬いた。


  * * * *


濡れ鼠で家に帰ると卓子の前に青白い顔をした友人が座っていて、色の無い目で自分をじっと 見つめてきた。どうしてだか据わりの悪い気がして、本当は自分でないものを見つめているの ではないかと疑い、何も無いのに後ろを振り向いた。身体も 拭かずに室内に上がったので、泥の足跡が自分の後ろにてんてんと続いている。

”因果の白糸はどうしても切れませんか。”

友人は言った。肺で呼吸していることが信じられないような、脳に直接話しかけるような篭った声 だった。鼓膜で声を察知出来ない。

「因果の白糸?」

たずね返すと彼はうっすらと笑って頷いた。外では相変わらず真珠が天から降ってきている。何 処かに落雷しているのか、時折怯えた様に地面がびりびりと震える。
濡れ髪から先の雨粒の名残がぽとぽとと床におちて小さな水溜りを作っていた。ずっと室内に いたのだろうか知らないが、彼は全く雨の気配を感じさせないのに、自分だけがこんなに濡れ ているのは、不自然な気がした。まだ外に居るみたいだと思う。
彼の血の気の無い顔が瞬きもせずにこちらを注視している。居心地が悪くて身じろぎをするの だが友人は一向に構わない様子で、大きな目をじっと向けてくる。
何故だか唐突に ”因果の白糸”の意味を理解した。

「因果はそう簡単には切れないよ。だって、世界は因果律で縛られているんだ。その白糸が切 れてしまったら、何もかもが駄目になってしまう。世界が存在しなくなってしまう。だから、 因果の白糸は、切れないよ」

また稲光。窓から射るような鋭い光が部屋を照らす。その光で、不意に、気付いてしまった――― 目の前の友人には影が出来ていない。この眩しい嵐の雷光にも彼には影が無かった。
彼は、誰だろう。友人だった気がしたが、本当に、そうだっただろうか。僕は彼を知ってい る筈なのに。

”でも、切りたいと思っているんです。”

声はやはり現実から乖離していて、溜息のような囁き声が脳に直接伝わってくる。

”過去をやり直したいと思ったら、因果の白糸を消してしまわないといけないのに、どうして も糸が切れないんです。過去を消してしまいたい。都合のいいように改竄してしまいたい。因 果の白糸が切れません。”

「何がそんなに厭なの? どうして改竄したいの? 現実は何度やり直しても、とても満足出来 ないものだよ。理想は叶わないから理想なんだ。因果の白糸は、たとえ一度切れてもまた結 ぼる」

と、僕は言った。彼は初めて悲しそうな顔を見せた。その顔に、見覚えがあった気がする。以前 、何処かで、僕は彼のその顔を見たのだ・・・・・・・・・泣き出しそうな子供の表情だと、昔も思ってい た筈なのだ。

”切らないと、”

やり直せないことがあるんです、と彼は言った。例えば、死んでしまったものとは因果の白糸を 切らなければどうやったって再会できないでしょう、と。

”こんな幻のような再開ではなく、もっと明瞭で確実な再会は、”

切らないと出来ません。と、彼は言う。
一体何を言っているのだろうと僕は思っている。彼は、何を言いたいのだろう。外では雨滴の音 楽、心地よい落雷の振動がまるで揺り籠のように安楽で、僕は次第に眠くなってきていた。その時 また稲光が走ったが、やはり彼に影は見えない。

「―――君は、  誰だっけ? ・・・・・・」

眠気はどんどん増している。上瞼が重くなって、下瞼と重なって。
最後に彼が泣いているみたいな声で、”眠らないで”と言ったのが聞こえた、そこで意識は完全に 途絶えた。


  * * * *


夢うつつに、耳の奥に張り付いている、真珠がぱらぱらと地面に落ちる音の正体が何だったか、と考 えて、そうだ雨音だ、と思い出した瞬間に目が覚めた。
窓から差し込む光は、昨夜の雷のような痛いくらいのではなく、梅雨明けの気配を含んだやわら かい陽光で、僕は昨晩のことは夢だったのだろうかと思い、しかし床に泥の足跡と濡れた跡があ ったのでやはり真実だったのだと亡羊とした。頭に霞がかかったみたいにはっきりしない。
そうして、徐々にはっきりとしてくる頭の奥に、引っかかるものがあった。
因果の白糸を切ってしまいたい、やり直したい、といって悲しそうな顔をしたあの友人は、そう だ、先月亡くなった、僕の親友だ。一月と少し前に、長患いの末静かに息を引き取った、彼だ。け して泣きはしないくせに、いつも泣き出しそうな顔で僕を見ていた。
脳裏に昨夜の彼の、澄み切っているのに変に寂しげな瞳が浮かんだ。彼はいつもあの目で、僕を見ていた のだった。
ああ、どうして、 忘れてしまっていたんだろう、   彼はあんなに哀しそうだったのに。
因果の白糸。やり直したいと。僕は、嘘でも、切れるよと言ってやれば良かった。


ふと目に入ったカレンダーを数えてみると、彼の命日から今日で四十九日経っていた。