セトはオシリスを憎んでいる。

 エジプトの神々の間に五人の子が生まれた。長男がオシリス、次男がホルス、三男がセト、長女が イシス、次女がネフティス。
 物心ついた頃から仲睦まじかったオシリスとイシスは、十五の年に契りを交わした。特別な事情の 無い限り肉親間で結婚するのが常識であった時代である。セトはネフティスと契った。別段ネフテ ィスを愛していたわけではない。人の目を引く煌びやかな容貌と起伏の激しいが魅力的な気性に恵 まれたイシスの影に威圧されるようにして育ったネフティスは、あまりに内気で引っ込み思案だっ た。まっすぐに前を向いていればそれなりに見られる顔であるのに、己の不器量を恥じ入るようにお どおどと視線を地面にさまよわせるネフティスの様子がセトには苛立たしかった。それでも強いて会 話をすれば、ネ フティスには余りに我というものが無かった。姉のイシスに引きずられるように生きていて決定権 を与えられたことの無い妹、眩しすぎるイシスの影で萎縮しきってしまった妹、矜持も誇りも何も かも打ち砕かれきって歪な花瓶のように空ろな妹………セトはネフティスを嫌悪した。まるで鏡を 見ているようではないか、セフティスは自分自身だ、セトの似姿だ。ネフティスの他人の顔色を窺 うような目線に、自分自身を見つけた。
 セトには兄が二人居る。上の兄オシリスと下の兄ホルスである。このうち下の方の兄は早くに家を 出てしまったので、セトは顔も良く知らない。なので兄と言うと専らオシリスが浮かぶ。
 オシリスは皆に愛されていた。黒い柔らかな巻き毛に優しげな黒曜石の瞳の美丈夫、性質は穏当で 寛容、しかしこと仕事となると何をやらせても立派にこなす優秀な兄であった。セトは彼が怒って いるのを見たことが無い。いつでも優しく微笑んでいて、彼の周囲には人の輪が途切れることが無 い。彼が手がける仕事はどんなものであれ一級の出来で、父母の信頼も厚い。イシスと並んだ姿は 絵に描いたように美しい、似合いのお二人だと誉めそやさぬ者は無い。
 オシリスは何もかも手中に収めている、それでいて決して驕らない。彼はいつでも一番で、セトは 二番に甘んじる。セトは、一番に名前を呼ばれたことが無い。一番に褒められたことが無い。先頭 切って歩いたことが無い。セトは二番手、必ずオシリスの後に続かねばならない。「オシリスはま ったく素晴らしい青年じゃないか、将来が楽しみだ。それにセトも優秀だ」「オシリスを婿に欲し いという奏上が多くて全く困るよ、彼は何処にもやる気はないさ。セトにも来ているが、彼も行か んだろうね」「エジプトを治めるのはオシリスを置いて他に無い。セトにはオシリスの補佐をさせ たらきっと良くやってくれるだろう」
 そうして気がつけば、セトの周りにあるものは全てオシリスの取りこぼしである。ネフティスです ら、余りものだ。セト自身もオシリスという兄の残り滓で出来ている。この妹といったらどうだ、 ネフティスはセトだ。イシスはオシリスだ。この空っぽな妹、セト自身も空っぽではないか、セト からオシリスの取りこぼしを取り除けば何が残る。イシスという美麗な大華が陽光を燦々と浴びる 、その日陰にひっそりと項垂れる味気無いネフティス。オシリスという巨木が闊達に腕を伸ばし葉 を広げて緑を深めていく、その影で光の当たることの無いセト。その晩セトはネフティスを酷いやり 方で陵辱した。身も焼ききれそうな同属嫌悪に、オシリスへの憎しみが混じった。
 セトはオシリスが憎い。ネフティスを乱暴にした晩、セトはオシリスへの憎悪を初めて自覚した のである。


* * * * *


 衆目を一身に集めたオシリスのエジプト即位より数年を経た。オシリスは持ち前の優秀さを余すところ無く 発揮してエジプトを統治している。彼は民に農耕技術を教え、彼らを飢餓から救い、また建築技術 を教え、彼らを雨風から守った。即位よりこの方、エジプトでオシリスを讃える声は止んだことが 無い。生活水準は格段に向上し、エジプトは目下繁栄のさなかにある。「オシリスの王位よ永遠な れ!」
 セトはオシリスの補佐にあたっていた。王の補佐とは即ちこの国の第二位であるということだが、 そうは言ってもやることなどほとんど無い、オシリスの完全無欠な才能の下に、これ以上何の補 佐が必要あろう。セトは己が単なる名目上のお飾りであることを知っていた。本当は、この国を 栄えしむるにはオシリス一人で充分なのである。では何故セトはエジプト第二位の地位を与えら れているのか? 答えは一つしかない。オシリスの温情である。
 セトの元には毎日数十の案件がオシリスのもとより送られてくる。セトはそれを機械的に仕上げ てオシリスの元に持ってゆく。するとオシリスは受け取ってさっと目を通し、有難う、直すとこ ろはありそうに無いよ。お前はやっぱり優秀だな、と言う。
 セトは、オシリスのその科白を聞く度に、昏い絶望を味わう。オシリスの手にかかれば、こんな 案件など手遊びにもならないのだ、それをオシリスは自分に回す、そしてその出来を褒める。そ の意味は明らかである。オシリスはセトを哀れんでいるのだ。自分をけして越えることの出来な い弟を哀れんで彼に地位と仕事を与え、そして弟の自尊心を傷つけないように細心の注意を払っ てその出来を讃えて、そうして弟が劣等感に押し潰されぬように苦心しているのだ。
 セトは考える。オシリスは、多分、兄として自分を愛しているのだろう。自分よりも能力の劣る 弟を、手のかかる植物でも育てるような慈しみ方で、オシリスは彼なりに大切にしている。だか らわざわざ手間をかけて、セトに仕事という存在意義を与え、セトが劣等感で傷つかぬように気 を配っている。弟の仕事を褒め、懸命に機嫌を取る。オシリスはセトの為を思って、こんな回り くどい事をしている。
 セトは、確かに優秀だった。他の官僚に比べれば、セトの有能さは抜きん出ている。けれども、 オシリスから見れば五十歩百歩なのである。そしてそのことに気付くことの出来る程度には、セ トはやはり優秀だった。
 オシリスは、褒め方について実に細やかに気を配る。余り大げさにならぬよう、それでいてセト がいい気分になれるよう、適切な表現を選んで使ってくる。有難う、いつも助かるよ。お前の 書いたのは読みやすい。良く出来てる。
 ある日、セトが案件を提出すると、オシリスはさっと流し見て、問題ない、と言うと、ふっと仕 事向けの表情を崩した。そして人好きのする笑顔で、言った。
 お前はおれの自慢の弟だよ。
 オシリスは、充足し安堵している表情で、笑った。肉親に向ける、心地良い隙の ある笑いだった。セトに、自分は信頼されているのだと感じさせる笑顔だった。いっそ無邪気な オシリスに、セトは震える声を無理に押さえつけて、有難うございます、光栄です、と言って退 出して、それから自室で嗚咽を殺して泣いた。


* * * * *


 兄を殺そうと思い立ったのは一瞬の出来事で、計画を立ててしまえば後は事務的に実行するだけ だった。
 セトは、棺を買った。それはとても大きなものだった。オシリスは背が高いから、並みの大きさ では間に合わない。棺には立派な装飾を施した。エジプト王に相応しい豪奢な棺、オシリスの永 久(とこしえ)の寝床に相応しい棺を作るには、いくらお金をかけても足りない。 細工職人に、セトは「この世で最も気高い神が眠るに相応しい棺を」と言うと、相手は変な 顔をした。
 この棺で、オシリスを殺そう。自分の見立てた箱の中でオシリスは永遠の眠りにつくのだと考え ると、セトは高揚した。もう、自分がオシリスを愛しているのか憎んでいるのか分からな い。ただ長い間弟としてオシリスの元についてきた年月は、確実にセトを消耗させていた。オシ リスを意識し続けること、オシリスへの敬愛と憎悪の狭間で揺れ動くこと、己の無力を嫌という ほど噛み締めること、そのいづれもがセトの胸のうちの柔らかい部分を磨耗させ削り上げていた 。オシリスは魅力的な人物だった、そしてその魅力を最も意識し続けたのはセトであった、その うちにオシリスの余りの偉大さに押し潰され卑屈になったセトはオシリスを憎んだ、けれども憎 みきることは出来ず、憎悪に徹しようとすればするほど羨望の念は抑えがたい。憎嫉の念と敬慕 の念は互いを高めあって、最早セトの手には負えない。セトには、オシリスの妻であるイシスよ りも、オシリスを意識している自信がある。オシリスを憎んでいる、同時に、押さえがたく羨慕 し惚れ込んでいる。
 イシスは、セトの複雑な心情に察しがついているのだろう、彼をオシリスに近づけたがらない。 それは、セトがオシリスに害をなすことを憂いているのか、或いはことオシリスに関して、セト がイシスのライバルになりうる事に感づいているのか、それは分からない。どちらにしてもイシ スはセトを敵視している、だからセトはイシスに気を配っていなければならない。オシリス殺害 の邪魔をさせてはならない。
 殺害準備は、まるで事務作業のようだった。一度立ててしまった計画に沿って機械的に作業をこ なす。セトは、オシリスを殺すつもりでありながら、オシリスが死ぬとは思っていない。だから こんな風に浅薄な心構えで殺害計画を実行できるのである。
 棺が完成すると、セトはオシリスを酒宴に招いた。オシリスは疑うことなく招待を受けた。喜ん で行かせてもらうよ、と言って嬉しげに笑った彼の顔は、子供のように無邪気だった。セトはそ の笑顔を倦怠の気持ちで見ていた。オシリスは、酒宴の席が内通者で満たされていることを知ら ない。
 酒宴の席に程よく酒精が回った頃を見計らって、例の棺を座に持ち出した。そして冗談めかして 「この棺をぴったり身体の合うものにあげよう! さぁみんな試してみるがいいよ」と言った。 酒の席の余興、ちょっとしたおふざけのように振る舞い、すると人々は面白がって次々に棺に入 ってみるが、サイズは合わない。オシリスの丈にあわせて作った特注品である、合う訳が無い。 すると、何も知らぬオシリスが試してみることになった。セトの心がすっと冷えた。オシリスは 棺に入り込み、身体を伏せる、するとサイズは驚くほどぴったりで―――――
 その瞬間に、セトは棺の蓋を下ろした。そして前もって意を通じさせていた内通者と共に協力し て、棺の蓋を釘打ちした。更に鉛で固着させた。オシリスは、棺に封印されてしまった。セトは兼 ねての計画通り、その棺をナイル河畔に運ばせると、棺を川に投げ込んでしまった。中に閉じ込 められたオシリス諸共、棺は川を流されて見えなくなってしまった。セトの計画は、万事恙無き まま一つの狂いも無く成功したのである。

 その間、セトの心に罪悪感がわくことは無かった。全ては計画のままに進めているだけで、そこ に心情の入り込むことは無かったのである。全ては機械的に、理性的に実行された。セトに感情 的な起伏が怒ることはついぞ無かった。だから、オシリスの棺が川の中を浮きつ沈みつ、川下に 流されていくのを見たときに初めて、セトの心に感情が湧き上がったのである。
 熱い様な冷たい様な、良くわからない複雑な感情がセトを貫いたのだった。取り返しのつかない ことをしてしまったという後悔や恐怖もさながら、しかし最も強くセトを支配したのは、これで ようやくオシリスを支配できたという満足感と充実感であった。生まれて初めてオシリスを完全 な形で手に入れた、しかも今後永遠にオシリスが誰かの手に渡ることも無い、勝利の甘露の味を セトは知った。背徳は苦く切ないものであると同時に、ぞっとするほど官能的だった。

 セトは知らない。酒宴の前に、イシスはオシリスに忠告を施していたのだった。
「嫌な予感がします。今日の酒宴にはいっては行けません。なにかよくないことが起きる気がし ます。第一、セトを信用してはいけないと言ったではないですか。あの弟は抜け目無い奴です、 いつか恩義も忘れて必ず貴方に牙をむきます」
「少し口を慎みなさい。たったひとりの弟じゃないか。それに、心配要らないよ、ただの酒宴だ」
「いいえ、貴方は甘すぎる。セトを信用してはなりません。あれは、貴方に何をするか、分かった ものじゃない。どうか警戒してください、取り合えず今日は行くのをやめて、どうか」
「大丈夫だよ、何も無い」
 それに、と言ってオシリスは寂しそうに笑った。
「セトは、悪いやつじゃない。本当はとてもいいやつだ、それが表に出にくいだけで、  おれ がいるばっかりに、セトも可哀想な目にあう」

(あいつは、かなしいやつなんだよ。)

 セトは気付かなかった。蓋の下ろされた棺の中からは、オシリスが必死に壁を叩く音が聞こえた。 血の滲むような激しい音が聞こえていた。けれども不意に音が止んで、それからは棺が内側から叩 かれることはついぞ無かった。
 どうして棺を叩くことをやめたのか。オシリスが棺の中、どんな気分で自分を罠に嵌めたセトを思 っていたのか。セトは気付かなかった、オシリスは棺を叩くのをやめたのである。

 暗い夜の下、ナイル川を流れていく棺をセトは見送った。セトは、己の瞼が泣き出しそうに痙攣し ていることも、やはり知らないままだった。