「貴方はいつも失敗してしまう、後悔ばかりの人生だ」

 不意に声が聞こえたと思ったら視界が開けた。目の前に女が立っていた。裾の長いレインコート を着て、フードを目深に被っている。女だと分かったのは、声が比較的高くて柔らかかったから だ。この人は誰だろう、分からない思い出せない、女は私を見知っているような事を言うのだけ れど。
「しっかり目を開きなさい。周りをきちんと認識しなさい。貴方はいま何処にいる?」
 そう言われた瞬間に、突然風景が広がった。つい今まで周囲の景色は取り落としてしまったよう に空白だったのに、私が見渡した瞬間に周辺世界が構築された。実に不可解で、女に疑問の視線 を寄せた、その瞬間に女のレインコートがくすんだ黄色だと言うことに気付いた。
 此処は河原である。背丈ほどの枯れ草が茂っている中に、私と女がいるところだけぽかりと空隙 になっている。目を少し逸らせば水の流れが目にはいる。流れは荒れている。上を見ると重い雲 が天に被さっている、じきに嵐が来るのだ、この河原も沈んでしまうかもしれない。
 川に乗り上げるようにして、小船が寄せてある。激しい水流に揺られてその小船も時折ひずむ様 な音をたてる。
 女は迷いの無い声音で言う。
「駅という場所は、決然としていて潔い。列車は決まった道を確実に進む。 だから行き場所が決まっている安心感と、どこかに進む事の 出来る期待と躍動感がある。でも、貴方は船しか持っていないね。船が列車と最も違うところは 、行き先が不定で安定の無いところだよ。貴方はこの船で何処へ行く?」
 そんなことを言われても分からない、私は何処へも行かない、此処にいたい。それでももうじき 嵐が来る、水気を含んだ風が、雨の到来を告げる。此処にはいられない、でも何処に?


* * * * *


 彼女の目印は黄色いレインコートだった。雨が降った日は、彼女が傘を持って迎えに来てくれる 。バス停に降りた私は目の端に必ず移る黄色に、毎日泣きたいような気持ちを覚える。
 私は毎日働きに出る、雨の日は彼女が私を迎えに来てくれる。彼女は私を見つけるとレインコー トのフードを下ろしてしまうから、私と彼女はいつも一つ傘で家に帰ることになる。傘は大きく ない、女二人で入るには余りに小さい、だから傘の下で二人の肩が触れ合う、それが私には嬉し くてたまらない。濡れないように身を寄せ合って傘を差す。
 私は毎日働いた、我武者羅に働いた、目先に移る仕事を只管にこなしてただ働く。男女同権の時 代とはいえ、女一人で二人分の食い扶持を稼ぐのは難しい。家に帰れば彼女がいる幸運、それを 維持する為には給料を得て今まで通りの生活を続けなければならない。私は変化を恐れた。
 ある日、雨が降った。彼女が黄色いレインコートを被ってバス停まで迎えに来てくれた。一つ傘 を差して歩く帰り道、彼女の目がいつもとは違う方向を向いていた。視線を辿ったその先には、 母親に腕を引かれて歩く長靴の幼児がいた。それに気付いた瞬間肌が泡だって視界が青くなった 。傘を握る手が冷たくなった。
 傘の下で二つの身体が余所余所しく距離をとるようになった。片方の肩が雨に濡れるようになっ た。


* * * * *


 河川の水が増水して、河原が浸水し始めた。湿気た風が徐々に強くなって、髪をなぶる。枯れ草 がざわざわと不穏な音を立てているのが私の怯えを煽る。レインコートの女が静かな声音で語る 。
「ほら、もうすぐ嵐が来る。貴方は此処にはいられない。船に乗るしかないけれど、貴方はこの 船に乗って何処に行くの?」
 そんなのは知らない、私は何処にも行きたくない。変化はどんなものにせよ恐ろしい、此処にと どまることが出来たならそれに越したことは無い。
「一切万物有為転変、変わらないものは無い。貴方は、だから我が侭なのよ」
 空がごろごろ鳴り始めた。東の天が不吉な光を湛えている。雨が降る、早く船に乗らなければ、 でも何処へ?
 意識が朦朧とする。目の前が霞むのを堪えて、私はレインコートの女に何かを伝えなければなら ないと思っている。だから言うべき言葉も分からないままに私は言った。
「私は一緒にいることを望んだから、彼女と同じ船に乗ったのに、あの子は違うところを見ている 。同じ船に乗っているのに、行き先が違う気がする。それが、哀しかった」
 昔日は幸福の象徴であった一つ傘が、今では行き詰まる諦観の桎梏でしかない。黄色のレインコ ートを見るたびに感じた、胸を締め付けるような幸福感、哀しいような美しい情感を、私は何処 かに置き忘れてきてしまった。爾来、レインコートを見る度に、長くは無い二人きりの生活の 終焉が間近であることを感じずにはいられなかった。世界は日々亀裂を深めて、最早私の手に 終えない。


* * * * *


 ある日彼女が怖いくらい真剣な目で話を聞いて欲しいと言った、私は一種の悔恨と諦観で以って 彼女に向き合った。
 御免なさい怒らないで聞いてね、この間から具合が悪くて食欲が無いし吐き気がするし、昨日病 院に行ってきたの。そうしたらね、赤ちゃんが、出来てるんだって。三ヶ月だって。順調に育っ ていますよ、って。ごめんね、ごめんね。
 誰の子供?
 ―――の子供、だと思う。計算してみたら、丁度あってたから。
 連絡、した?
 うん………そうしたら、結婚しよう、って。結婚して、二人で暮らそう、子供を産んで、きちん と育てようって。
 ………そう。
 ごめんなさい、ごめんね、だから、これいじょう、いっしょに暮らしていけない。ごめんね、ご めんね………―――――
 彼女の頬が濡れていた。紅くなった目で私を懸命に見つめていた。私は果たして怒ればいいのか 、泣けばいいのか、それとも縋り付いて情けを請えばいいのか、どうすればいいのか分からなく なって目を伏せた。赤ん坊の父親を私は知っている。いつも私のほうに物言いたげな視線を投げ掛け ていた男だった 。あの男は、私が嫌いで、そうして彼女が好きだった。私はいつも、人に嫌われるようなことし か出来ない。


* * * * *


「でも、そもそもが、貴方の我侭だった」
 レインコートの女が言った。
「全部、貴方が自分の勝手で作り出した小船だったじゃない。それに無理やり乗せた彼女が降り てしまったって、それは仕方ない。貴方はどうしていつも、やり方を間違えるんだろうね」
そんなことは知っている。マンションを勝手に契約して、家具も買い揃えてしまってから、彼女 に一緒に住んでほしいといった。そうしてしまえば彼女は断らないことを知っていた。私はその 頃養父母を亡くしたばかりで、世界にたった一人放り出されたと思い込んでよく服の袖を涙で濡 らしていた。心配して声をかけてくれる彼女を、より確実に捕らえておきたいと思ってしまった。 私は彼女を同情で無理やり縛り付けた。
「同じ船に乗せてしまえば………、一つの船に乗ってしまえば、行き先は一緒だと、思っていた のに」
 雨降りの日、バス停を降りると、彼女の黄色いレインコート目の端に映る。私はそれを見るたびに、泣きたい ような気持ちになる。無理に縛り付けるようにしている彼女への申し訳無さ、遣る瀬無い感情、 明日にも失うかもしれない現在の幸福への恐れと悲しみ、そういう種類の感情で胸の奥が痛くて 堪らない。けれども、彼女が何も無いような顔で笑うから、私は幸福を感じてしまっていた。私 のやり方の卑怯さが余計に、彼女の優しさを際立たせているようだった。お帰りといわれれば、 ただいまと返してしまう己の欺瞞に比べて、彼女がどんなにか綺麗に見えた。
 追い立てられるように働いた。 子供以外なら、他の何だって与えてあげようと思っていた。けれど、子供だけは、私では与えて あげられない。幼児に目をひきつけられるようになった彼女を見て不意に罪悪感が増した。
「船に乗りなさい。今度は一人で。私が舵を取ってあげるから」
 レインコートの女が言った。私は顔を上げた、すると女は顔を隠すフードを取った。女は、私と 同じ顔だった。


* * * * *


 泣きたくなるほど幸福だったのだ。黄色いレインコートに一つ傘、濡れないように身を寄せて帰 途につく、それだけの他愛ない時間が私の生活の全てだった。だから、片方の肩が雨に濡れるよ うになった時、もうこれで仕舞いであることを悟った。


* * * * *


 女が櫂を取って船にたった。私も後ろに乗り込む。
 小船は嵐の川を、無方向に進む。彼女の船は、もう見えない。