オズは一人になると、かかしやブリキの木こりやライオンに、ずばり自分たちがほしいと思っ たものをあげるのに成功したことを考えてにっこりしました。
「こういう連中がみんな、できないとだれでも知ってることをやらせようとするんだから、こ っちだってペテン師になるしかないだろうが。」
(L.F.バウム 『オズの魔法使い』 武田正代訳)



* * * * *


 弔いの火が、天上を焦がすほどに舞い上がる。

 射干玉の暗闇の中、沢山の人が輪を描いて立ち竦んでいる。世界には深い夜の帳が下りてい て、互いに鼻を抓みあっても分からない。誰も彼もが無言である。死人のように口をつぐんで 、ただ円形の中央を睨んでいる。
 何処かで陶器が割れる鋭い音がした。澄んだ音は女の悲鳴のようである。茶碗が割れたのだ 、と矢尾は思った。透明な暗闇に五感を奪われて、何処で割れたのかは分からない。人が死ぬ と、その人の茶碗を割らねばならない。茶碗に魂が篭っているといけないからである。今の音 は、菊野の茶碗を割った音だ。陶器が地面で砕ける、鋭い神経質な音が当たり一面に響いた 。
 その音を合図に、円陣の一角が裂けた。人波が夕凪のように寂々と引いて、その間を、松明 を持った喪服の男がひんやりと進む。足音を立てず幽霊のように滑ってゆく。硬質な闇にぼん やりとした松明の明かりが狐火のようで、不明瞭な灯りが心許無い。橙色の火が、幻のように ふわりふわりと動く。
 誰も口をきかない。衣擦れの音一つ立てない。沈黙の中で、円の中央を睨む。松明の明かり で、今は少し周りが見える。あまりに夜が深すぎて輪郭がはっきりしないけれども、今は円の 中央を見通すことが出来る。そこには、薪を組んで作った簡易な台がある。その台の上に、何 か暗くて黒いものが乗っかっている。矢尾は暗い黒いものの正体を知っている、知っているか ら動悸が一瞬高鳴って鼓動が胸を痛いほど叩いた、けれども直ぐに平静な心持でそれを見つめ た。薄暗い中にも、それが人間の形を取っていることくらいは分かる。人間が菊野の顔をして いるかは分からないにせよ。
 喪服の男は円の中央までくると、薪の台の隙間に松明を入れた。すると直ぐに台は内側から 橙色に光って、炎を上げ始めた。明るい色の炎が薪を舐めるように燃え上がって、さっと火の 粉を高く巻き上げる。橙色の火が台を完全に食し終える直前、赤々と菊野の顔が照らし出され て、すぐに炎に消えた。ぱちぱちと木が爆(は)ぜる音と炎が台と菊野を舐め上げていくごう ごうという音と、ただそれだけが世界の底に響いていて、その場に居る沢山の人の誰一人とし て物音一つたてようとしない。誰もが一心に燃え上がる炎を見つめている。炎が大勢の人の無 表情を照らし出している。菊野の弔いの炎を、黒い石のような目で見つめている。
 橙色はやがて何もかも食い尽くして、天に手を伸ばす。空を焦がすように火の手は燃え上が る。ぬば玉の闇夜に弔いの炎がぽつんと色を添える。


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「菊野、君は何になりたい」
 あれはいつの日のことだったろう。毎日が平穏でたまらなく幸福だった日々に、菊野と不思 議な会話をした事があった。どんな話の流れでその科白が出てきたのか、今となっては覚えて いない。矢尾の問いかけに、菊野は首をかしげて考えるように天を見上げた。
「そうだね………何になりたいというのとは少し違うけれど」
 案外に早く菊野の答えが返ってきた事に、少しだけ驚いて目を見張った覚えがある。菊野は 続けてこう言った。
「僕は、オズになりたいと思うよ」
「オズ?」
「魔法使いだよ。ほら、童話で『オズの魔法使い』ってあるだろう。あのオズ、僕はあれにな りたい」
当初は意味がよく分からず、かける言葉に窮して矢尾は口をつぐんだ。オズの魔法使いという 話は知っている。ある日ドロシーという少女が魔法の国に迷い込んでしまい、もとの世界に帰 る為に魔法使いオズを求めて旅をするという話だった。
 矢尾がまごついていると、菊野が笑みを含んだ柔らかい声で言葉を続けた。
「あまり有名ではないけど、オズというのは実は魔法使いではないんだよ。彼はペテン師だ 」
 言われてみて、矢尾は記憶を掘り起こす。そうだったろうか。童話を読んだのは随分昔の事 だから、曖昧な断片しか覚えていない。
「オズは脳がほしいという案山子に、針を混ぜたおが屑を頭につめてやった。人を愛する心臓 が欲しいというブリキの木こりには、絹で出来た心臓を与えた。勇気がほしいという臆病者の ライオンには勇気と自信の出る薬を飲ませた。案山子も木こりもライオンも望みを叶えて貰っ て感謝した。でも、実はオズの魔法は全部嘘だったんだよ」
 ―――――やっぱりオズは大魔法使いだ。
 ―――――みんなの望みを本当に叶えてしまった。
 ―――――これで、僕らも一人前だ。
「考えてみるといい、おが屑は脳にはならないし絹が心臓になることも無い、勇気は薬を飲ん で得られるものじゃない。オズは魔法使いではなかった、単なるペテン師だったんだよ、周り を上手く騙して魔法使いのふりをしていただけで、本当はただの人間、少し舌の回るだけの小 男だったんだ」
 菊野はそこまで語って、数瞬言葉を切った。そうして目を閉じて、言葉を咽喉の奥で選んで いるようだった。矢尾はちらりと隣の様子を窺った、菊野の頬が少し赤みを帯びて、弁舌にも 僅かに熱が入っている。再び菊野は語りだした。
「でも、実際案山子は仲間内で一番の切れ者になったし、木こりは仲間を愛するようになった 、ライオンは己よりも強い敵を屠る事が出来るようになった。オズは、皆の願いを叶えた。そ れは魔法を使ったのではなかったけれど」
 菊野の声は穏やかだった、静かに流れるような声だった。矢尾は彼の声が好きだった、清流 が湧き出るような声だと思っていた。声には人柄が滲む、彼の声は飾り気がなく清らかで、人 に愛される声だった。
「ただの人間が誰かを幸福にしようと思ったら、魔法を使えない人間が誰かの願いを叶えよう と思ったら、いかさまをするしかない。嘘が真になったら幸運だ。オズのペテンは、案山子や 木こりやライオンには真実に魔法だったんだから」
 そういって菊野は眉尻を下げて笑った。笑うと菊野は印象が柔らかくなる、その顔も、矢尾 の好きな菊野の一部分だった。
「僕は、オズのような嘘がつけたらいいなと思う」


* * * * *


 荼毘の炎もじきに小さくなり、熾火となる。矢尾の目前で高く舞い上がった火の手は、数刻も経 たぬうちに勢いを失った。燃え尽きた薪が炭となってはぜている。生臭い厭な臭いがするのに眉を しかめて、その臭いが菊野の肉体の火葬の臭いなのだと気付き、矢尾は自分を恥じた。そうして、 胸の裂けるような切ない気分になった。この臭いが、菊野の残したすべてなのである。あの清純 な水のような菊野の、最後の名残なのである。
 胸の悪くなるような悪臭に、迫り上げる吐き気と、静寂に響く微かな炭化した木のはぜる音、 ―――――菊野の骨は、どこにあるのだろう。彼の白い骨を、拾わなければならない。彼の骨が 白くない訳は無い。
 火葬が終わり、弔問の人々も徐々に疎らになってきていた。骨揚げをするのは普通親族のみだ が、妾腹だと噂された菊野には父が無く、母方の縁者も一人二人である。それでは余りに少ない というので、矢尾も骨揚げに加わることになっていた。それでも人数は五人に満たない、寂しい 荼毘であると思う。
「あの、すみません」
 ふいに声をかけられて、見ると見知らぬ女性であった。年の頃は二十歳に届くか届かないかと いう所だろうか。濡れたように光る美しい黒い目の女性である。
「この辺りに菊野という家があると聞いたんですが、御存じないですか。兄を探しているんです 。今年二十三になると思います。会いたいのですが、所在をお知りで無いですか」
 女性は黒っぽい服ではあったが喪服ではなかった。瞳に映った光が揺れている。菊野に妹は居 ない―――――異母妹だろうか。この人は、菊野の死を知らないのだろうか。
 女性の瞳が揺れている。水気を含んで、不安げに揺らいでいる。矢尾は菊野の荼毘を教えよう として、躊躇した。女性の目は今にも泣き出してしまいそうに濡れている。しっかりと上着の裾 を握り締めたか細い指は、震えていた。血の気の無い頬は青ざめて寒々しい。
 真っ黒な濡れた瞳が無言で問いかけている。矢尾は、何か言おうと口を開いた。
「菊野は………」
 ―――――僕は、オズになりたいと思うよ。
「菊野の所在は知りませんが、彼の不在の事情なら分かります。彼は先日引っ越しました。何で も母方の親戚の方に引き取られるとか言っていましたと思います。越した先の住所までは知らな いのですが、なにぶん急な話だったので」
 言葉が勝手に口から零れだした。言葉尻が震えているのが自分でも分かる、目の辺りが痙攣し ている。女性の顔を直視できない。真っ黒な瞳がじっとこちらをみつめているのに、いたたまれ ないような気がした。騙せるだろうか、自分は、騙しているのだろうか。
「菊野は薄情な男です。細かい説明もなしに、急に越していってしまった。遠いところだと言っ ていたから、もう会えないでしょう。色々と話し足りない事もあったのに、こちらの事情などお 構いなしです。向こうで上手くやっているといいけれど、彼は人がいいから、大丈夫だとは思う のですが。本当に、もっと落ち着いていけばよかったのに、あの男は急いでいってしまいました 」
 残念です、という言葉が風に攫われて宙に消えた。空には星も無い。自分が嘘を吐いているの かもう分からなくなってしまっていた。嘘の気もするけれど、嘘ではない気もする。騙したのか 、今のは、騙せるのか。女性はふいに瞳を揺らして、目を伏せた。そうして伏せがちな目で、諦 観と絶望を含んだ目で、火葬の炎の跡を一瞥した。そうして顔を上げないまま、消え入るような 小さな声で、言った。
「亡くなったんですね」
 菊野は、兄は、亡くなったんですね。女性は俯いたまま手で目の辺りを覆った。
「父の所に、知らせが来たんです。妾宅の子が亡くなったという訃報でした。父はそれをすぐに 隠してしまったけれど、私はこっそりそれを見てしまいました。私は、兄に一度も会ったことが 無かったんです。だから、顔が見たかった、死んだなんて信じませんでした、信じたくなかった 、此処にきたら会うことが出来ると思ったんです。玄関の戸を開いて、良く来てくれたね、と言 ってくれると思ったんです。顔も知らないのに、きっと歓迎してくれると私は思っていました 」
 一度も、会うことが出来なかった。そう言った彼女の声は、最後に嗚咽に飲み込まれた。細い 肩が哀しいくらいに弱々しげだった。顔立ちはあまり似ていない癖に、その様子はどうしてだか 、驚くほど菊野を想起させた。彼は滅多に穏やかな表情を崩したことが無かったが、それでも彼 が泣き濡れたことがあるだろう事を、矢尾は知っていた。天を見上げると、墨を流したような黒 天に潰されてしまいそうだと思った。
 菊野、菊野、僕はオズにはなれそうにない。魔法使いどころかペテン師にもなれない。誰かを 幸福にするなんて、誰かの願いをかなえるなんて、僕には出来そうも無い。菊野、菊野、