1945年8月 南部戦線 ベトナム山中にて


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 故郷の山はこれほど険しくはなかったと思う。ベトナムの山は木々が生い茂り、根が縦横 無尽に地を這っていて頗る歩きにくい。蔦類が視界を遮っているのも煩わしい。手で草木を 払いのけながら道を行くのは、ただ歩くよりも余程消耗する。それに、故郷の夏はこれほど 蒸さなかったと思う。暑さよりも湿気が体力を奪う。水分の多い大気の中では、汗が流れて いるのかさえよく分からない。身体に纏わりつく衣服は重い。
 大陸南部は日差しさえ濁って見える。鬱陶しいほど茂った樹林で空が見えない。あたり一 面腐ったような緑に覆われている。緑色が深すぎて空気が腐敗しているように感じる。吸っ た酸素が毒素に冒されている気がする。肺の内部から、森の臭気にやられていくようだ。
 今日が何日なのか分からない。一人で山をさまよい始めて何日経ったのかもわからない。 幾度かの昼と夜を体験したが、一刻だって安らいだ時は無かった。気が狂いそうだと思う。 寧ろ狂ってしまいたいと思う。
 木々が鈍い色をしている。世界が限りなく黒に近い緑と茶に冒されて、どこを歩いている のか分からなくする。土が腐敗臭を漂わせている。土は死の匂いだ。何人もの人間の死骸を 栄養にしてしまう山の大地は死の匂いがする。その甘美で濃厚な匂いの中を、危うい正気に頼って彷徨 う。洗練されていない素のままの大地の匂いは、それだけで狂気を誘うに十分であろう。
 白兵戦に敗れて山に逃げこんだその時は、自分の隣には高杉がいた。同郷の仲間である。 彼は村では一等の知恵者で、辺りで唯一帝大に進んだ優秀な男だったのに、文系専攻で あった為に学徒供出に引っかかってしまった。同じ部隊に配属したときは頭の良いのに難儀 なやつだと笑ってやった。理系専攻にすればよかったのにと言うと、どうしても歴史をやり たかったのだと苦笑していた。強情な奴ともう一度笑う。根っから研究者然としていて、細 長い身体をしていた彼はどう見ても筋肉などありそうに無かった。背筋が伸びた姿勢は美し く立ち姿は様になっていたが、どうみても実践向きの身体をしているとは言いがたかった。 まるで役者のような体つきなのである。それを見て、こんなのを投入してくるようになれば日本も終わりだ な、と思ったのは秘密である。もしものときに最初に散るのはこういう奴に違いないと内心 頷いていたのだが、ふたを開けてみれば切れ味の悪い刀剣を振り回して生き残ったのは自分と 高杉であったのだから笑える話だと思う。けれどもやはり、戦陣の傷が元になって、つい 先だって高杉は山中で息を引き取った。せめて死に場所が戦闘の最中で無かったことは救い だったろう。実に静かな最期だった。普段から口数の少ない物静かな男 だったが、死ぬ時くらい取り乱して泣くなり喚くなりすれば良いものを、一言も口を利かず に逝ってしまった。遺体は戦友の誼で山に埋めてやった。こんなどことも知れぬ土地の土に なるのは無念だろうかとも思ったが、かといってそこいらにさらしておく訳にもいかない。 涙は枯れたように出てこなかった。悲しみなどという人間らしい感情は何処かに置き忘れて きてしまったようである。埋める時に、彼の髪を一束切って己の懐にしまった。もし帰郷す ることが出来たなら、彼の家に届けてやりたいと思う。
 果たして、もう夜中である。例の如く空が見えないので月明かりも星明りも期待できない 。かといって敵兵から逃げている事を考えれば火をおこす訳にもいかず、火が無い以上は獣 の心配をせずにで休息することは不可能なので、自然歩き通しになる。身体が持たないので 時折は木の上で仮眠を取るのだが、姿勢が不自然なせいで安眠は保障されないし、何より神 経が高ぶっていて禄に寝れたものではない。結局方向も何も無視して歩くことになるのだが 、足の感覚が無く歩いているのか止まっているのか自分でもよく分からない。暗闇の中己の 足を確かめる方法がないのだから、いよいよ困る。けれども止まってはいけないような気が して、とにかく歩く。


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 時間感覚も空間感覚も怪しくなっていよいよ自分の正体が分からなくなってきた時、遠く の方で、甲高い笛の音が聞こえた。
 ぴーひょろ、ぴーひょろ、
 笛の音、それに太鼓、何処かで聴いたことがあると思ったら、お囃子の音である。森の奥 の奥、暗い森林の深淵から、お囃子の音が聞こえてくる。
 ぴーひょろ、ぴーひょろ、こんちきち、
 しかしここは日本ではない、まして山中である、南部戦線の真っ只中、大陸の南、そんな ところで祭囃子の聞こえる筈は無い。ついに耳までおかしくなってしまったのだろうか、そ れとも頭がやられたのだろうか。
 ぴーひょろ、ぴーひょろ、こんちきち、どんどんどどん、こんちきち、
 そうこうするうちに木々の間に灯りが見えてきた。密度の濃い橙色の灯明、火の光である 。近づくにつれ、それが篝火の光であることが分かった。祭囃子も篝火の辺りから聞こえて くるようだ。足は最早意志の力の支配下には無く、勝手に灯りを目指して歩を進めてゆく。 森の中にぽっかりと木々の生えていない空き地があり、その真ん中に篝火が焚かれている、 そしてその周囲には、人がいる。
 ぴーぴーぴーひょろ、こんちきち、どんどんどどん、こんちきち、
 空き地に一歩踏み込んで、ようやく立ち止まった。篝火の周りを囲むように人がいる。十 幾人ほどだろうか。そして、お囃子にあわせて、全員が踊っている。踊りには見覚えがあっ た、恐らく盆踊りだ。空き地の端の方に楽器を持った人々が数名いて、彼らがお囃子を演奏 しているらしい。一体全体こんなところで何をしているのかと思い、敵兵が来るかもしれな いのだから早く逃げなさいと注意すべきだろうかと思案投首でとにもかくにも踊り手の面々をじっく りと見てみると、皆が皆面を被っている。面はおたふくや翁や般若や、様々である。思わず首を 傾げてしまった。しかし紺や白の浴衣に面を被り柔らかい動きで舞う人々は、なるほど美し い。不思議な清らかさがある。避難を勧告することも忘れて見入ってしまった。
 仮面を被っているせいで踊り手の顔はさっぱり分からない。同じ踊りをしているせいか、 全員が実は同じ人間なのではないかとも思える。そしてその踊りが、全員見事な出来栄えな のである。感嘆しきりで見物していると、横から声をかけられた。
「もし、貴方様、どこから参った」
 誰もいなかったはずの自分の横に、いつのまにか浴衣姿の男が立っていた。彼は面をつけ ていない。一体どこから来たのだろうと思ったが、男がにこやかな顔をしていたので尋ねる のはよした。男は穏やかな笑顔で語りかけてくる。
「もしや迷い込んだ口か? なら余り長居してはいけない。早く帰るところに帰ったほうが いい。これに見入ってしまうと、そのうちいけなくなってしまう」
 そうは言われても帰るところが分からない。帰るべきなのかも不明瞭だ。そもそもどこを 目指して歩いていたのかも知らないのに、帰れといわれても帰れない。
 何処かかみ合わない顔をしている己を気にかけることも無く、男は喋っている。その声は 低く穏やかで、流れる水のようだ。とても気持ちがいい。
「今年は沢山の人が死んだよ。だが代わりに来年は沢山の人が産まれるだろう。貴方は運が 良かった、今日死んでいないなら来年まで生きていられるだろう。来年生きられるなら、も う大丈夫だ、そうそう死にはしない。祭りも今年は盛大だが、来年はきっともっと静かにや れるだろう。今年は人が死にすぎた」
 それはそうだろう。今は戦争中だ、お国の大事である。いつもより死人が多いのは当然の ことである。
「貴方はまだ生きているな。これに迷い込む人は最近では珍しい。歓迎して迎え入れること は出来ないが、一つ良いことを教えてやろう。篝火のところで踊っている、狐面の男を御覧 」
 そういわれて篝火の辺りに目を投じると、確かに一人狐面の男がいる。紺の絣の浴衣を着 て、盆踊りの輪の中で踊っている。他の面々は皆人間の面を被っているのに、その男だけが 狐面だった。すらりとした体躯の男である。何処かで見覚えがあるような気がして、目を細 めて注視する。
「狐面の彼は、つい先頃こちらに来たばかりだ。貴方も彼を知っているだろう。彼は不幸で は無かったよ、最期に貴方が看取ってくれたんだから。死ぬ間際に、貴方の顔を見て、故郷 の小川で魚を眺めていたのを思い出したと言っていた。貴方はとても良いことをした」
 ついと狐面の男がこちらを向いた。そうして踊りの輪から抜け出して、一歩此方に近づい た。背筋の伸びた気持ちのいい姿勢だ。すらりとした立ち姿だ。筋肉などまるでついていな いような細長い身体だ。男は狐面を外した。


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 ふと目を覚ますと、布張りの天井が見えた。ここは森ではなかったかと思い見回すと、ど うにもテントの中にいるようである。どうなっているのだろうと腕を組んだところに、同じ ような格好の男が一人、テントに入ってきた。良く見ると、おなじ部隊に配属されていた筈 の男である。生きていたのかと此方が目を見張ると、男は涙ぐんだ目で無事でよかった、と 言った。聞けば、自分はあの山深い森の中で一人倒れていたそうである。それを見つけた彼 が自軍のテントまで背負って連れて来てくれたのだという。すまなかった、有難うというと 、彼はとうとう泣き出した。そうして、戦争が終わりました、と言った。
 ついさっき玉音放送がラジオから。電波が悪くてほとんど聞き取れなかったが、戦争には 負けたらしい。もうこれで終わりだと。切れ切れの彼の言葉を推測するに、もうこれで、帰 るところに帰っても良いと、そういう事らしい。現実味がちっとも無いせいで嬉しいよりも 衝撃の方が大きい。
 男は、今日は八月十五日です。記念に残る日になるでしょう。と言った。八月十五日。そ れでは今はお盆なのかと思ったと同時に、沢山の記憶が頭の中に逆流した。
 森の中に明るい篝火。祭囃子が遠く響いていた。そうして、面を被った人々が輪になって 回りながら踊っていた、その中にたった一人狐面の男がいた。横で喋りかけてきた男が、狐 面の男を御覧というと、彼はその面を外した。そうしてこちらを見た。
 頭の奥の方が熱い。耳鳴りがする。沢山の記憶が頭の中でぐるぐると回っている。故郷の 山や川。清流に泳ぐ小さな魚。透き通った水。ある日、母が震える手で差し出した赤紙。部 隊は南中戦線へ進軍した。良く分からないうちにどんどん敵兵がやってきて、気付いたら横 には高杉しかいなかった。その次の瞬間には呼吸のやんだ高杉を、看取った。
 記憶がぐるぐる回る。狐面の男はすらりと面を外した。その奥にあった顔は、そうだ、高 杉だった。そうして彼は、哀しそうに笑った。輪の中にたった一人の狐面の素顔は、歴史を やりたいんだといってはにかんだ男の顔をしていた。
 そうだ、今はお盆だったのだ。だから死んだ高杉は帰って来たのだ。今年は沢山の人が死 んだから祭は盛大になってしまったと、横に立っていた男は言った。祭の輪の中には、高杉 もいた。―――――来年は沢山の人が産まれるだろう。
 どうかしましたか、と泣き顔の男は心配そうに言った。大丈夫だと答えた。答えたついで に、無駄話をする気になった。
「盆踊りというのがあるだろう。君はあの踊りでどうして面をつけて踊るのか知っているか 。あれはね、踊っている輪の中に、死者がいるかもしれないかららしい。踊っている輪の人 数がいつのまにか増えていたら、それは輪の中に死者がいる証拠だ。お盆で帰って来た死者 が混ざっているんだ。だから、面をつけて誰が死者なのか分からなくするらしい」
 天井を見上げた。布張りの天井が見えた。天井越しに、空を眺める。
「今年の盆も終わる。迎え火は焚けなかったが、送り火くらいは焚いてやろう。今年は沢山 死んだから、道に迷わないように、送り火を焚いてやろう」
 そういって、横の彼に終わったなぁ、と言った。何がなのかは、言わない。