私の友人は大層な映画好きで、月に三十本は軽いという。多いときは五六十本は見るらしい。一月三十日、六 十本の映画を見るとすると一日あたり二本。一本二時間なら一日四時間。これは結構な比率である。そういう 風に映画漬けの日々を送っているとどうなるかというと、嘘の映像と現実の境目が分からなくなるらしい。そ ういう経緯で、私の友人はやることなすこといちいちが少しばかり、おかしい。

 以前、滅多なことでは外に出ない彼が珍しく庭に出ていた。私はなんとなく二階の窓からその様子を見守って いたら、彼はふらふらと庭の梔子の茂みに近寄って行って、その白い肉厚の花をぐいと鷲掴みにすると、その まま口元に持っていってむしゃむしゃと食い始めた。私は呆気にとられた。茫然と見守っている間に彼は二つ 三つと手を伸ばして、どんどん梔子の花を食っていく。ようやく私は我に返って、窓をあけて彼に向かって何 をやっているんだと叫んだ。
 彼はけろっとした顔で「いや旨いって言うから」とかいった。「誰が」と私が聞くと、「芳子が」とか言う。 芳子って誰だと再度問い返すと、「だから芳子だよ」。
 埒が明かない。私はすぐに庭へ降りて、彼をつれて室内に戻った。そしてそんな得体の知れないものを食うん じゃないと言って聞かせた。彼は釈然としない顔で、不機嫌そうにしている。
 あとから芳子の正体が判明した。彼が見ていた映画にでてくるヒロインの名前だった。作中に、嫉妬に狂った 芳子が庭の梔子の花を全部食ってしまうシーンがあるのである。旨い旨いといいながら無心に食う。その目が 、焦点は合ってないくせに、やけにぎらぎらしていて怖い。

 またあるときの事。私が家の中でぼんやりして過ごしていたら、突然窓の外ですごい物音がした。高いところ から何かが落下したかのような。凄まじく嫌な予感が背筋を駆け巡って、私は急いで外を見た。すると、目の 前に植わっている灌木がひしゃげていて、地面には例の彼が落ちていた。二階から飛び降りたらしい。血の気 の引くような思いで急いで庭に下り大丈夫かと声をかけると、彼は大事無いという風に手を振って見せた。幸 い木がクッションになったおかげで怪我は無かったらしい。彼自身は意外に平気な風で、寧ろ見てるこちら側 の心臓のほうが跳ね上がっている。
 彼は寝転がった姿勢のまま、「右から二番目の星はどこだ」と言った。落下の衝撃で折れた気の向こう側に青 い空が見えるらしい。「たっくさん、待ってる。みんなパンを待ってる。なんで今日に限って星が見えないん だ」私はパンとは朝食に食べるあれのことか、それともフライパンのパンか、と色々思案した末に、やっとピ ーターパンのパンだと合点がいった。それで星は夜にならないと見えない旨を言い聞かせて、彼の体を引っ張 って無理矢理布団に寝かせた。

 朝方、寝ている私の枕元にたって大演説を始めたこともあった。
 何か頭の上で声がするので目を覚ますと、彼が仁王立ちで胸を張り何事か熱心に演説していた。私は寝ぼけて いて状況が把握できないし、寝起きの目は霞んで正確な情景を捉えられないし、しばらくぼおっとしていたの だが、その間も彼は厳しい口調で何か重大なことを説明しているようだった。
 自信ありげな態度や断定的な口調や惚れ惚れするような話しぶりなど、彼の態度は堂に入っており、日常的に 演説を行っているように見えるが、そんなわけは絶対に無い。主義思想がどうこう、政治体制がどうこうと言 っているが、私は彼が一貫した考えを貫いているところをついぞ見たことが無いし、政治なぞに興味を持って いるようにも到底見えない。大体、今日こうやって大演説をかました翌日には部屋の隅で蟻の行列を一匹ずつ つぶしているような男なのである。
 諸君、今こそ立ち上がるときである、とか彼は言った。きっと映画の受け売りだろうと思って、私は取り合え ずやる気の無い拍手をした。彼は優雅に一礼してくるりと身を翻して自分の部屋に戻っていった。
 彼自身は語るべきほどのことなど持ち合わせていないのに、一端に演説をかましているのを見ているのは、虚 しかった。あの大仰なほどの身振り、演技がかった口調………大方独裁者の映画に見入ったのだろう。

 一事が万事彼はこの調子で、私には彼と言う人間が分からない。
 昨日陽気だった翌日には陰気であり、昨日白痴だった翌日には天才であり、女にもなれば男にもなり、子供か と思えば老人で、日々彼は映画によって生かされているようなものだ。その日見た映画で、彼のその日の運命 が決まるのである。

 ある日、私が一階で書き物をしていると、二階でどすんという、何かが落っこちたような音が聞こえた。私は 何か気になって、二階に上がって彼の部屋の戸を開けると、天井の鴨居に先がわっかになった紐が通してあり 、彼はその下で腰を抑えてうめいていた。傍には踏み台にしたらしい脚立が横転している。
 何があったのか、一目瞭然だった。
 私は、頭に血が上るのを感じた。そのまま感情に任せてどなりちらした。なにをやってるんだとか、まさか死 ぬ気かとか、大馬鹿者とか、兎に角そういう感じの事を思うままに言い散らして、部屋にずかずか入っていっ て、彼の顔を力いっぱいひっぱたいた。明らかに首をつるための紐が天井の鴨居にぶら下がっていて、もしも 彼が誤って脚立を踏み外して落っこちなかったら、恐らく私の目の前にあるのは彼の死体だったのだ。そう思 うとぞっとして、何がなんだか分からないような心地だった。なんでそういうことをするんだ首をつってなん になるんだ私はどうなる置いてかれた私は! 筋も論理も通らないことを私はわめいた。
 畳みに転がった彼は、頭を抱えて藺草に額を押し付けて、言葉にならないうめき声を上げていた。私がひとし きり怒鳴り喚きした後、彼は泣き叫ぶように以下のようなことを言った。
 もう何がなんだかさっぱり分からない、自分と言う人間が何物なのかが分からない。今ここにいる自分は何物 なんだ。自分というのは一体どこにいるのか。ここに生きてる自分は誰だ。何物だ。どういう奴だ。寄せ集め の科白を言う機械か、既成の脚本の詰まった空っぽの器か。本当の、どの脚本ともかかわりの無い、本当の自 分とやらは、どこにいるんだ。
 こんな風な意味のことを、彼は泣きつ喚きつ、言ったのである。
 それを聞いて、私はその彼の悲痛な科白が、一体彼の本音なのかそれとも例のように映画のワンシーンの亜流 なのか、さっぱり分からなくなってしまった。その言葉は、本当に彼の心底からのものなのか、それとも、今 日見た映画にたまたまそういうシーンがあって彼はそれの真似をしているだけなのか。
 私はすっかり混乱した。彼の言っていることは、心の底からなんだろうか、それとも今日限りの良くある台本 の一つなんだろうか。
 訳もなく、ただのいつもの彼の映画の真似というだけでは、無い気がした。
 彼は畳に爪をかけてがりがりと引っかいた。私はそれをただ見ていた。何もいえなかった。彼と言う人間は、 毎日見る映画で出来ていた。本当の彼なんて何処にもいないんじゃないかと私には思われた。でも、自分は沢 山の映画が詰まっているただの器に過ぎないのだと知ることは、大層怖いことなんだろうという予測は私にも 付いた。彼から映画を取ってしまえば何も残らない、そういう、残酷な話だ。

 今日死のうとした彼は、けれども明日になったらまた映画の真似をして、梔子を食ったり空を飛ぼうとしたり 大演説をぶってみたりするのだ。今日の彼は、明日には無かったことになるのだ。彼はどこにいるのか。世界 にありふれた物語で構成されている、私の友人は、本当は一体誰なのか。

 翌日、彼は自分が昨日首をつろうとしていたことなんて忘れてしまったように振舞った。昨日の彼の自殺未遂 は、一体なんだったんだろう。昨日たまたまそういう映画を彼は見てしまったんだろうか。それとも、本当の 彼の悲鳴だったんだろうか(本当の彼なんてものがいるとして)。
 次の朝へらへらしながらパジャマのまま裸足で外に繰り出そうとした彼を必死で食い止めた私は、彼の住む世 界を思ってうそ寒いような気持ちになり、なんだか非常に寂しくなった。もういいから、もういいから、そう いって彼を何とか家の中に押し戻した私は、でもその科白の続きをどうしても思い浮かべることが出来ず、な んだか泣きたいような気持ちになった。もういいから何だというのか、彼の逃げ道は、どうしたって死ぬしか 方策が無かった。まして私が口出しできる生易しい話ではなかった。なにもかもが冷酷で非情だった。