泪と共に夜を送りし者ならでは暁の有難さは判るまじ。
稲垣足穂 『死の館にて』
* * * * *
A曰く、
「どうしてそうなってしまったのかは分らない、ただ彼は狂ってしまった、今では正気なんて
持ち合わせていない、ただ狂気あるのみである」
ある日彼は突然に狂ってしまっていた。今では脈絡のある会話は出来ないし、やることなすこ
と全て突飛である。頭の良い男だったのだが、今では訳の分らない事しか言わない。喋ってい
ると居た堪れない気分になる。やりきれない。
先日Aは彼の入院している病院に慰問しにいったのだという。その折の会話が辛かった。
「やぁ! 久しぶりだね、調子はどうだい」
「X軸とY軸は垂直の交わっており調子は頗る良い。垂直なのは十字架だ、水平なのは空と地
面だ。空は青いらしいが部屋は白い。心根は茶色い」
「頭の調子は良くないらしいな。早く良くなってくれよ、君のいない研究室は間が抜けていて
詰まらない」
「詰まっているのは分子運動だ。空いているのは孤独だ。孤独は天才の精神で、馬鹿と紙一重
だ。馬鹿は赤色だ。赤色は危険色だから気をつけなければならない、赤いきのこは毒で、赤い
蛇も毒で、女の口紅も毒だ」
「研究室の君の椅子が空席になってからというもの、例の君のライバルだった奴が急に親分風
を吹かすようになって、全く呆れたもんだよ。大した能力も無いくせにえらそうなフリばっか
り上手いんだから」
「緑はキチガイの色だ。黄緑なんて突き抜けたキチガイだ。緑の目は怪物の目だから、殺さな
ければならない。殺すなら咽喉を一突きが良い。咽喉には仏がある。しかも男にしかない。女
は罪深い」
「ねぇ、頼むからしっかりしてくれよ。僕はもううんざりだ」
* * * * *
B曰く、
「彼はもともと死にたがりだった。ずっと死にたくてたまらなくて、でも身体は死ぬことが出来
なかったから、仕方なく心を殺したのだ」
Bと彼は特別仲が良かったわけではなかった。せいぜいが知人以上友人未満である。嫌いあって
もいなかったが仲良くなろうという気もわかなかった。Bも彼も若くなかった、交友関係に於いて
必要以上に仲を深めようとするのは若者の特権である。その点をいえば二人とも十分に大人だ
った。
ただBは鋭い男だった。人より直感に優れた男だった。だから、彼が時折左手首を庇っているの
にBはとうに気付いていた。彼の左手首にはまっさらな包帯が巻かれていて、それがBの目には
いつも眩しかった。ある日、一向にはずされることの無い左手首の包帯に見かねて、Bは彼を説
教した。
「おやB。どうしたの、怖い顔をしているよ」
「どうしたもこうしたも無い。君、その手首の包帯は何なんだ。いつまでもつまらないことをし
ているんじゃない」
「そんなに睨まないでくれよ、どうしたの君らしくない」
「僕らしいもへったくれもあるか。ここ二三ヶ月、その包帯は巻かれっぱなしじゃないか。どう
してそうずっと包帯が取れないような真似をするんだ、やめなさい」
「何の事を言っているのか分らないよ」
「とぼけるのか。それなら、その腕をみせてみろ!」
そこで、Bは彼の腕の包帯を無理やり毟り取った。彼が嫌がって抵抗するのも構わず、包帯を千
切り捨てるように剥いだ。彼の包帯の下の左手首には、剃刀で切ったような
細く紅い筋が平行にいくつも刻まれていた。B
が実際に傷を目の当たりにして決まり悪げに俯くと、彼は怒ったように包帯を奪い取って足音高く
部屋を飛び出してしまった。
彼が狂ってしまった今になって思えば、後先考えない行動を取ってしまったとBは思う。彼は頭
の良い男だったし、その分プライドも高かった、Bの唐突な無礼は彼の心をいたく傷つけただろう。もっ
と上手いやり方で彼を諌める方法があった筈だと思うと今になって後悔がわき上がる。
多分、彼はあの頃、わざと包帯をBに見せることでさりげなく救助信号を発していたのだ。Bは、
最悪の方法で彼の弱点を暴いてしまった。
* * * * *
C曰く、
「彼は優しい男だった。なまじ賢いから、見えなくていいものまで見てしまって、ひどく苦しん
でいた、哀しい男だった」
彼は脳の方にばかりエネルギーがいってしまっていて、考えることは得意だが生活力の無い人間
だったから、時折Cが食事を作ってやったりしていた。ある日、Cが朝食を作ってやって二人で
食事をしていると、テレビが「戦争がはじまりました」と告げた。つい先ほど、地球の裏側で宣
戦布告が行われたのだという。沢山の兵士が銃を背負って進撃している映像が映し出されて、そ
れから母親に背負われた子供の泣き顔が放送された。Cはそれを見て、感情に訴えるような場面
をニュースに使うのは卑怯だと感じた。何故なら、ニュースとは冷静に事実のみを伝えるもので
あるべきだからだ。
朝の清浄な空気に香ばしい香りのトースト、テレビの中の世界との隔絶が凄まじい。
Cは彼に「えらく感情的なニュースだね」と言った。だが、彼から
の返事は無かった。話しかけたのに何の反応も無いのをいぶかしんでCが彼の顔を覗き込むと、
彼は両の目からぽろぽろと涙をこぼしてじっとテレビを見つめていた。そうして、呟くようにこ
う言った。
「どうして世界には悪意が満ち満ちているんだろう。どうしてもっと上手くやっていけないんだ
ろう」
彼は繊細だった。傷つきやすく、些細なことで直ぐに不安げに目を揺らした。けれども、Cが彼
の涙を見たのは、その時一度きりである。彼は滅多に泣かなかった。或いは独りの時間にひっそり
と落涙していたのかもしれないが、少なくとも人前ではこらえるのが上手かった。
ある時、Cと彼が散歩をしていると、車道の真ん中に猫の死体があった。Cは可哀想に
としか思わなかったのだが、ふと横を見ると彼の肩が震えていた。ぎょっとして立ち止まり彼の
様子を窺うと、彼の呼吸は引きつり乱れていた。Cは
「泣くなよ」
と言って、彼の肩をたたいた。すると彼は顔を上げてCの方に向き直った。ところが、Cの予想
に反して彼は泣いていなかった。彼は笑っていた。泣く代わりに笑って
いた。嗚咽に似た声を上げながら、彼の頬は上向きに引きつっていた。
泣き声と笑い声は似ている。彼は、己の矜持を守る為に、涙を捨てて代わりに笑顔を身に着
けたのだった。それは滑稽だけれど哀しいことだとCは思った。
* * * * *
D曰く、
「彼が正気を失い狂気を手に入れようとしていたあの時、僕は彼を止めてやるべきだった。けれ
ど、それが出来なかった。まさかあんな冗談みたいな方法で彼が狂ってしまうとは思ってもみな
かったから」
Dは彼の古い友人だった。学生時代は良く一緒に色んな遊びをしたが、社会人になってからはお互
いに何かと煩忙で連絡を取り合う暇がなく、それきりになってしまっていた。だから、彼が突然D
の家を訪れてきた時、Dはひどく驚いた。そうしてそれから歓迎した。久闊を叙して互いの身上
の変化などを一通り語り合い、一段落着いたところで彼は「一緒に散歩がしたい」と言い出した
。そういえば学生時代は良く二人でこの辺りを散歩しながら議論を交わしたものだったと思い出
して、Dも「それは良い」と言った。
彼は始終にこにこと嬉しそうな笑顔を浮かべていた。街中はかつてと変わるところも無く懐かし
かった。彼は、
「角の駄菓子屋で良く飲んだね」
と弾んだ調子で言いながら、サイダーを指差したので、何だかDも懐古心をくすぐられて二人で
サイダーを買って近くのベンチに腰掛けた。すると途端に彼の表情が硬くなり、こんなことを言
い出したのだった。
「なんだか年を経るに従って段々生きにくくなってくるよ。昔はこうやって息抜きすることも出
来た筈なのに、今では呼吸が詰まりそうだ。世の中が最近になって急に殺伐としてまるで僕を殺
そうとしているみたいだ。何かこれといって訳があるわけでもないのに、最近頓に物悲しい」
そんなことを酷く疲れたような顔でとつとつと語るものだから、Dは少し奇妙な感じを受けた。
そうしてそれをごまかすように、
「なんだい、そんな年寄りじみたことを! 君はまだまだ若いじゃないか、研究所の期待のホー
プだろう。そんな厭世的なことをいうものじゃない」
と言って笑い飛ばそうとしたのだが、彼は一向Dの話など聞いていない風に思いつめた顔で、サ
イダーの瓶を見つめている。その様子が幽鬼じみていてうそ寒い。しっかりしろよ、と言ったD
の言葉を遮るように、彼は言った。
「このままだと僕は世界に殺される。だから、殺される前に死のうと思う。けれど死ぬのは沢山
の人に迷惑をかけると思うから、代わりに心を殺すことにする。心を殺せば僕は狂ってしまうだ
ろう。だから、僕は自分で狂ってしまうことに決めた。僕は、もう何も感じたくは無い。こりご
りなんだ」
Dは嫌な予感がした。体中の毛が太るような恐怖を覚えた。何か言ってこの場の空気を変えなけ
ればと思うのに舌が回らない。血の気が引いて目の前が青くなる。彼は、Dの目を見ながら、サ
イダーの瓶を手の中でゆらして、
「聞いてくれ。このサイダーは、ただのサイダーだが、今だけは毒水だ。この毒水を飲むと、僕
はただではすまない、きっと狂ってしまうだろう。ねぇD、もしこれを飲んで僕がおかしくなっ
てしまったら、悪いけれど僕を病院に連れて行ってくれ。すまないね」
そう言って、瓶の蓋を外した。Dは恐ろしさに身体が竦んで物も言えない。早くサイダーの瓶を
彼から奪わなければいけない、飲んでしまったら彼は狂ってしまう、でも本当にサイダーを飲ん
で狂うなんて事があるだろうか? ただの炭酸水なのに? もしかしたらこれは彼一流の冗談か
もしれない、けれども彼の目は本気に見える、一体何が起ころうとしているんだろう、一体
何が?
Dがそうやって混乱している間に、彼はサイダーの瓶をぐっと呷った。止める間もあればこそ、
しかしサイダーを飲む彼には一瞬の躊躇も無かった。そうして数口嚥下して、サイダーの瓶を地
面に取り落として糸が切れたように倒れてしまった。サイダーの零れた所
だけ大地の色が変わって、ぱちぱち音を立てる液体のしみがじわじわと広がってゆく。Dは悲鳴
を飲み込んだ。
そして覚醒した時にはもう、彼は狂気に冒されてしまっていたのである。
* * * * *
E曰く、
「彼は早まってしまった、何も狂ってしまうことは無かったのに。沢山の決断を急ぎすぎて、彼
は今此処にいる」
Eが彼の入院のことを知ったのは、病院からかかってきた電話によってであった。曰く、彼の入
院時の保証人になってほしいとかいう電話である。考えてみれば彼の親はすでに亡くなっており
、比較的近い親戚は彼の伯父、即ちEの父である。保証人になりうるのはEの家の者しかない。
老齢の父に代わってEが保証人になり、義理で見舞いにいくことにした。
彼の母とEの父とは兄妹である。けれども早くに彼の父母が亡くなって以来、Eの家と彼とはず
いぶん疎遠になってしまっている。今更電話で保証人がどうこう、といわれても、実際迷惑だ御免
蒙ると言い
たいところなのだが、世の中は義理と人情だ、仕方ない。そう思い彼のいる病室に行ってみると
精神病棟の一室をあてがわれておりしかも彼は狂ってしまったいう。保証人なんて引き受けるん
じゃなかったと思ったがもう遅い。
看護婦に事情を問うたところ、彼がこうなってしまった経緯を聞かされ、身内の方なら出来れば
たまに様子を見に来てもらえると有難いと言われた。ますます深い思慮もなしに電話口で
安請け合いしてしまったことを悔いたが、こうなってしまえば乗りかかった船である。暇を
見つけて彼を見舞うことにした。そうと決めてしまうと、幼少のみぎりに共に遊んだ従兄弟がこ
んな風になってしまったということが感慨深く思われてならない。あの折から利口な子供で色々悟りす
ぎてしまうきらいはあったが、それにしてもこんなことになってしまうとは。
Eとて社会の歯車の一端であるから、そうそう毎日は来られない。せいぜいが土日に顔を見せる
くらいである。狂人とはいっても会話が通じないことを除けば大人しいもので、暴れたりはしな
い。Eがとつとつと独り言じみた言葉を漏らしていると、それを静かに見つめている。その様子
にはどこか此方の話を理解しているのではないかと思わせるような趣があって、Eは結局休日の
大半を病室で過ごすようになった。此方の語り掛けに反応こそ無くとも、耳には入っているだろ
う。耳に入る以上は脳にも蓄積される。そうなれば、如何なる無駄話も彼の病状の回復に繋がる
こともあるかもしれない。
昔こそ緊密な付き合いをしていたものの近頃は何の交流も無かったため彼の交友関係などはとん
と知らない。それでも彼の許には数人の友人らしき人物が見舞いにやってくる。彼らの話を聞き
、何となく最近の彼の人柄が掴めた気がする。凡その性格は昔と変わってはいなかったが、幾分
昔よりも感受性が鋭敏になり悲観的なものの見方をするようになっていたらしかった。今日の狂
気はなるべくしてなったのだという風な印象をうけた。
Aは博覧強記で秀才肌の彼を教えてくれた。Bは矜持は高いが傷つきやすい彼を教えてくれた。
Cは繊細で不器用であった彼を教えてくれた。Dは彼の学生時代と、それに正気の彼の
最後の瞬間を教えてくれた。どの彼も、Eの従兄弟として幼少の頃共に遊んだ頃の面影を残して
いて、何だかおかしく、それに哀しかった。間接的に聞く彼は美しく魅力的で、賢明だが愚直に
、不恰好だが優雅に、生きている。その様子が何故だか懸命で果敢なくて、笑いたいような泣き
たいような気持ちにさせる。Eは、初めて現在の彼と言葉を交わしたいと思った。
彼は、心を殺すのだといったらしい。世界に殺される前に、自分で自分を殺すのだといった
と聞く。けれどもEには、
彼の心は死んでいないように見える。意識の奥深く、乳白色の霧の向こう側に、彼の心
は確かに存在していて、それが時折霧が晴れてEにもちらりと見出せる。例えば彼はEの言葉に
耳を傾ける。そうして稀に、目じりを下げる。或いは、眉間にしわを寄せる。或いは、頬を紅潮
させる。注意しなければ見過ごしてしまう瑣末な所為の端々に、彼の心が見え隠れする。
Eは思う。心はけして殺せない。心は死なない。夢の中で何度も彼と言葉を交わした、次は現実
で挨拶を交わしたい。