世界に巣くう蜘蛛の話、業を知らない蜘蛛の話、愚かな思想を捨てられずにいた 蜘蛛の話、笑わば笑え、蔑まば蔑め、いかようにもどうぞ、ご照覧。


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銀色の糸に朝露が光る綺麗な巣の中で、蜘蛛は非常に憂鬱でした。毎朝目が覚めると 巣には羽虫が引っ掛かっています。蜘蛛はそれを哀しそうに見つめてから、合掌して 食らいます。
「ああどうして 羽虫はこんなに馬鹿なんだろう どうして巣の中に飛んでくるんだ ろう 引っ掛からなければ食わないのに」
口の中に入れるとばたばたと羽が口蓋を叩く、その感触が蜘蛛は嫌いです。一度咀嚼 してしまえば二度と動かなくなってしまう、その生命の失せる瞬間が嫌いです。飲み 下す時のざらざらと咽喉に引っ掛かる感じが嫌いです。何より、生きようとする意思 をねじ伏せて食らう自分の生命のあり方が嫌いです。


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太古の昔、天にまします神様が、地上に生命を生み出そうとしました。そこで沢山の 魂が天に呼び集められました。神様はその魂の一つ一つに質問を投げかけます。
「お前はどんな生命になりたいか」
問われた魂は様々に返答します。
「私は 見る者を魅せずにはいられないような 美しい生命になりたいです」
「私は 全ての生物を圧倒するような 強い生命になりたいです」
「私は 誰にも負けない頑丈な体躯を持つ 大きな生命になりたいです」
「私は あらゆる者に策略で勝つ 賢い生命になりたいです」
神様はそれぞれの希望に沿った肉体を作って、魂に与えてやります。一つとして同じ 生命はありません。沢山の魂に、沢山の肉体が与えられて、どんどん地上に送り込ま れてゆきます。寂しかった大地は、じきに多くの生命で賑やかになりました。
そうして、最後の魂が天の神様の前に残りました。他の全ての魂は全て肉体を得て、 地上で生活を始めています。神様は最後の魂を見ました。小さくて、気が弱そうで、 心なしか放つ光も弱弱しい、今にも消えてしまいそうな魂です。
「最後の魂よ お前はどんな生命になりたいか」
神様は聞きました。魂は、小さく震えて、沈黙の後消え入りそうな声で答えました。 「神様 神様 私は肉体は要りません 地上に行きたくありません」
魂の声はあんまりか細くて小さくて聞き取りにくかったのですが、神様はよく注意し てしっかり聞き取ることが出来ました。けれども、その答えを聞くと、目を見開いて 驚いてしまいました。何故かといって、どの魂も肉体を貰うととても嬉しがって地上 に飛んでいきましたから、そんなことを言う魂は初めてだったからです。
「それは何故? お前は肉の身体が 欲しくはないのか?」
「身体を持てばお腹が減ります お腹が減ったらば何かを食わねばなりません でも 地上には魂を持った生き物しかいないから 何かを食べるならそれは生命を殺してし まうという事になります 私は他の魂を殺して生きているのは嫌です」
それを聞いた神様は怒るやら呆れるやら、この弱弱しい魂は何を抜かすのか、そんな 馬鹿な事を言う奴は神の御前から去れと言って、不恰好な八本足の身体をその魂に無理 矢理かぶせて地上に放逐してしまいました。
最後の魂の名前は、蜘蛛と言います。


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蜘蛛の銀色の巣の下に、蟷螂(かまきり)がやってきました。草色の身体は鋭敏且つ 迅速に餌を屠るのに長けています。蟷螂は細い首をぐるりと上に回して、蜘蛛を小馬 鹿にした目で一瞥してこう言い放ちました。
「なんだい蜘蛛 君はひどい顔色じゃないか またぞろいらぬ事を考えて餌を獲って いないんだろう 僕を御覧よ この満ち足りて洗練された美しい身体を それに比べ て君はなんて不細工な格好をしているんだろうね」
蔑みの言葉にも蜘蛛は投げやりな姿勢です。
「蟷螂さん 君は餌を獲るとき 何の迷いも無くその鋭い鎌を一閃させて餌を殺して しまうね どうして君はそういう事が出来るの?」
すると突然蟷螂は自慢の鎌を振り上げて一閃、目の前を這っていた虫を殺してしまいました 。そしてその切れ味に満足そうに頷いた後、その虫を食らいました。蜘蛛は身動き一 つ取れませんでした。
「どうしてだって? 簡単さ 食わないと死んでしまうもの! 僕は自分が生き延び る為に最善の道を取っているだけさ 君のように聖人君子の顔をして餓えて死んでし まう奴は それは馬鹿と言うんだよ!」
そうして蟷螂は去っていきました。後に残ったのは沈黙した蜘蛛だけです。


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日が中天にかかる頃になると、蜘蛛の回りをひらひらと舞う虫がいます。蝶々です。 空色と卵色が模様を描く羽がとても綺麗な昆虫です。蝶々はその羽の美麗さと、それ から危うい飛び方の繊細さでもって、他の羽虫とは一線を画しています。蜘蛛は蝶々 の羽の乱舞に見惚れて、夢見心地の口調で言いました。
「蝶々さん あなたはとても綺麗だね どうしてそんなに綺麗なの?」
すると蝶々は甲高い声で言いました。
「それはね 私が花の蜜を吸って生きているからよ 魅惑的な花々の花弁の中に潜ん でいる豊満な香りの蜜は 私を美しくしてくれるわ! あなたはとても醜いわね 一 体何を食べて生きているの?」
蜘蛛は打ち沈んだ声で恥ずかしげに答えます。
「僕は この巣に引っ掛かった羽虫を食べているよ」
蝶々はおかしくてたまらないという風に身をよじって笑いました。そうして高慢な口 調で言いました。
「羽虫を! だからあなたはそんなに醜いのね あなたにプライドってものは無いの かしら そんなものを食べるなんてあなたって意地汚いみたいよ 手にはいるものは なんでも食べていいってものじゃないわ!」
そうして一通り蜘蛛を嘲弄すると、また優雅に飛んでいってしまいました。蜘蛛はじ っとこらえて巣に縮こまります。


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太陽が西の空に沈む頃、あたり一体が斜陽で真っ赤に染まり、その中を赤蜻蛉(とんぼ)がゆっ たりと飛んでいます。山の緑が赤く染まっている中でも、赤蜻蛉の赤色はとりわけ鮮 やかで目に眩しい色です。セロファンみたいに薄い羽を震わせて飛ぶ蜻蛉が、蜘蛛は 内心で気に入っていました。それに蜻蛉は思慮深く穏やかな性格で、他の虫のように 蜘蛛を馬鹿にしたりはしなかったので、蜘蛛は蜻蛉には心を許していました。
年老いた赤蜻蛉が蜘蛛の傍まで飛んできて話しかけました。
「蜘蛛や 今日はいい天気だった 調子はどうだね」
「大分良いです 有難う 今日は蟷螂さんや蝶々さんがやってきました」
「そうかい 蟷螂や蝶々はものをはっきり言う性質だから疲れたろう」
「いいえ いいえ 疲れるなんて いつものことですから」
そう言うと、蜘蛛は少し逡巡してから口を開きました。
「赤蜻蛉のおじいさん ぼくには一つわからないことがあります 質問してもいいで すか どうか教えてください 判らないんです」
赤蜻蛉は落ち着いた態度で、先を促しました。蜘蛛は言葉を続けます。
「ぼくは何かを食べなければ生きていけません だから羽虫を捕らえて食べます で もどうして食べないといけないんですか ぼくが生きる為に羽虫を殺すことは良い事 なんですか ぼく一人が生き残る為に沢山の羽虫が死んでしまう それは間違ったこ とではないのですか わからないんですおじいさん ぼくは本当に羽虫を食べていて いいんですか 羽虫を殺していていいんですか」
そういうと蜘蛛は疲れたように項垂れて黙ってしまいました。赤蜻蛉は静かに羽を畳 みました。少しの間落ちた沈黙の後、赤蜻蛉は静かな声で言いました。
「蜘蛛や わしはお前よりもずいぶん長く生きている だが長い間こうして生きてい ても相変わらず判らないことと言うのは多いのだよ お前の質問はとても難しい 年 寄りのわしでも判らない 困難な問題だ とても複雑な問題だ
 お前の狩りの方法は変わっておるなぁ 糸を張ってそこに獲物が掛かるのをひたす ら待つ 消極的な方法だ お前は怖いのだろう生き物を殺してしまうのが そうして それを食べてしまうのが それに沢山の死骸の上に自分だけが生きていることが」
蜘蛛は黙って足をちぢこめました。赤蜻蛉は深い色の目でそれを見ています。
「蜘蛛や お前は間違ってはいないよ けれども正解してもいない
 生き物は自分一つを生かす為に沢山の生き物を犠牲にしなくてはならない それが この世界の法則なんだよ そうしてその世界に生きる以上我々もその法則に則らねば ならんのだ お前は食いたくないといったね だがそれは出来ないのだ 法則に悖る (もとる)願いだから 出来ないのだ
 我々は生命を与えられた だから生きなくてはならん 何があっても己の生存に向 けて努力せねばならん 我々に生命を放棄する権利は無い だからお前は食わねばな らんのだ 蜘蛛や 我々は食わねば生きれないから だから食わねばならん 例え羽 虫の生命を犠牲にしても
 蜘蛛や お前の志は間違っておらんよ 己一つの生命に対して犠牲が多すぎる そ れはわしもそう思う 食いたくないという気持ちも分かる 殺したくないと思うのも  だがお前は食らうことを放棄してはならん 我々は生きているのだ 蜘蛛や」
 そうして赤蜻蛉は沈黙して、静かに一言呟きます。 「食べないと言う行為自体が尊いのではない それを志す心が尊いのだ 蜘 蛛や 蜘蛛や そのことを良く考えて欲しいのだよ お前は哀しい生命だ」
蜘蛛はますます身を縮めました。世界は夜になり、いつの間にか空は暗く、銀色に輝 いていた巣ももう見えません。赤蜻蛉の鈍く光る目だけが蜘蛛を見つめています。
「わしにはこれ以上は何も言えん だが忘れるな 我々は何を置いても己の生存を選 ばねばならんという事を そうして考えて欲 しいのだ 生きている間しか考えることは出来ないのだから」
そういって赤蜻蛉は暗闇の奥へと飛び去って行きました。


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神様神様 私はなぜこのような八本足の醜い身体を与えられたのですか?

それはお前に沢山のことを考えさせるためだ 美しいものは思考しない 己の醜さを 知る者だけが思考する お前が性根の醜さと外観の醜さでもって多くのことを考える ように お前の姿を醜くしたのだ 世界の法則と生きるうえでの業(カルマ)と己の 生命の重さと そういうことをお前が考えるように私はお前を醜く作ったのだ 私は 私の世界の住人に 多くのことを学んで欲しかったのだ


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(行為が尊いのではなく 心が尊い)
蜘蛛は心中で赤蜻蛉の言葉を反芻しました。
(我々は生きねばならない、なにをおいても生存に努力せねばならない)
まだまだ蜘蛛にはその言葉の意味が良くわかりません。八本足をぞろりとうごめかせ て、蜘蛛は考えます。
夜は未だ明けません。
「けれども明日は 羽虫を食べることはできるだろうか」