からす 何故鳴くの
からすは山に かわいい七つの 子があるからよ。
かわいい かわいいと からすは鳴くの
かわいい かわいいと 鳴くんだよ。
山の古巣へ 行ってみてごらん
まぁるい目をした いい子だよ。
童謡「七つの子」
* * * * *
秋が来れば思い出す、たった一つの思い出がある。
思い出というのは危ういものだと思う。流々と過ぎ去る時間に、何か特別な事
があって、それだけが記憶に残っているのだけれど、やはり時は流々としている
から、後から本当にあったのかどうか疑ってしまう。本当は無かった事なのかも
知れない、分からない、思い出は朽ちてしまうものだから。
あの事も、本当にあった事なのか、今となっては分からない。昔日、柔らかな
果実の様な夕焼けの日に、確かに言葉を交わしたと思うんだけれど。
二人で、木の上を見上げていた。どうしてそうなったのかはもう覚えていない。ただ
、活動写真から切り取ったようなシーンでしか今では記憶に無い。木の上の方に
、洞(うろ)があって、そこにぎっしりと小枝が詰められているのを見つけて、
私は あ、 と言った。隣にいたハチが、黒い髪の間から黒い目でそれをじっと
見て、 鳥の巣だね と呟いた。洞は小さい、子供の頭くらいの大きさしかない
。そこに、ぎっしりと小枝が詰め込まれている。あの巣に住むのは一体どんな鳥
なんだろうか、私はそれを見たかった。ハチは何も言わなかったけれど、私の心
中を察してくれたようで、黙って一緒に居てくれた。
秋の陽は格別綺麗で、熟れた枇杷の色をしている。沈むにつれて色を増してゆ
く残光が、世界を柔らかな色に染め上げてゆく。すると、里の方から一匹の
黒い鳥が飛んできた。その鳥は、こんなに世界中が落日の色に染まっているのに
、真っ黒なままで、とても力強く此方に向かって飛翔している。風切羽が空気を
裂く音さえ聞こえるような迷いの無い飛び方で、あっという間に目の前の木に止
まった。黒い鳥は、鴉だった。鴉は見物している私やハチには頓着せずに、洞の
巣の入り口の小枝を真っ黒な嘴で突っつくと、隙間を作って、するっとそこに入
っていってしまった。巣の主は、鴉だったのだ。
私は少し面食らっていた。巣は、子供の頭くらいしかないのだ。鴉は、あれで
結構立派な形(なり)をしている。巣の中で羽を広げることも叶うまい、それど
ころか身動きを取れるかさえ怪しい。まして、あの中には小枝も詰まっているの
だ。鴉の巣としては、小さすぎる。
私は黒い髪の合間から覗くハチの顔を見た。ハチも巣の方を静かに見つめてい
たので、私はハチに巣が小さすぎやしないかと訊いてみたのだ。ハチは静かな水
面のような声で、答えてくれた。
「狭い方が良いんだ。生き物は、狭い場所のほうが安心できるから。僕らだって
、夜になると小さな家の中に帰っていくだろう。自分の身体ひとつ収まるところ
の方が、きっと安らげる」
そんなものだろうか、と私は思った。広い空を飛びまわれるのに、わざわざ狭
い地上に巣を作る鴉の気持ちは、私には分かりかねた。透き通った色硝子みたい
な青空や、一面に砂糖を振りまいたみたいな星空、それに金色や薄紫を帯びた雲
を纏った朝焼けの中を自由に滑空する綺麗な黒い鳥。その自由を知っている
のに、どうしてあんな狭いところに帰ってこれるんだろうか。私ならそんなこと
は絶対にしないのに。
ハチは、そんな私の考えを察したように、澄んだ湖の声でこう言った。
「帰るところがあるのは、とても幸福なことだよ。空は、生き物が住みかとする
には、とても広すぎる。途方が無さすぎる。小さな洞が、丁度いいんだ」
そうだろうか。私にはやはりしっくり来なかった。鴉は巣に入ったきり、もう
出てこない。
しかしそれにしても、と私は思う。
さっきの鴉の姿といったらどうだろう。里から斜面に沿って上ってくる黒い風
。枇杷色の夕焼けで全てが優しい色彩を帯びている中で、鴉の黒は一点、凛
として揺るがなかった。全てが美しい黄金色に染め上げられているのに、
鴉だけが、昂然と黒色の羽となって、空を切り裂く。
とても強い鳥だと思った。
それに、その強さは多分、ハチに似ている。何者にも染まらない黒。目の覚める
ような凛とした黒。しなやかで美しい黒。優しい癖に染まらない色、ゆったりと
寛容で、懐の深い黒。ハチの髪の毛も、夕焼けの中で紅い果実の色に染まってい
なかった。あの鴉は、きっと、ハチだ。
秋の夕焼け、もう本当にあったことなのかも分からない。鴉のようなハチと、
一緒に木を見上げていた、かすかすぎる思い出は、今もふとした瞬間をついて胸
に郷愁を呼び起こす。あれから、私はハチに 綺麗だね と言った。夕焼けが、
なのかそれとも鴉が、なのか、私にも判然としないその言葉に、ハチは何も言わ
ず、そっと私の手を引いて里へと降りていった。
* * * * *
秋が来れば思い出す。思い出して、慰められる。
思い出の効用というのは畢竟そういうことなのだと思う。思い出して、慰めら
れる。本当にあった事だったのかなど、分からない、分からないけれども、思い
出すだけで心に体温が宿る。
―――今年の夏は冷夏だった。夏至を過ぎてもちっとも太陽は顔を出さず、夏の嵐の
ような天気ばかりが続き、山颪の空っ風が里に吹き荒れた。そのせいで、今はも
う秋になったのに、田の穂が実らない。今年の稲は、秋になっても、ちっともし
ならない。米が、出来ない。
(今年も秋が来た。秋が来れば思い出す、たとえ実らぬ秋でも、 ハチと見た
枇杷色の夕焼け、染まらぬ鴉、)
寒かった夏の影響か、先日早すぎる霜が降りた。例年より、ずっと早い。朝起
きると、外が雪の日みたいに白くなっているのだ。草鞋の下で、地面が、きゅっ
きゅっと鳴る。その霜で、作物もやられた。頼みの綱だった畑も、今年は全
滅だ。少しの根菜と、数えるほどの葉っぱ物が、今年の収穫の全てとなってしま
った。いつもなら、この時期はどこの家も一年の収穫で豊かになっている筈なのに
、今年に限って米倉も野菜床も空っぽである。里人は、どの顔も暗い。このまま
では冬が越せない。
(あれを見たのはまだ幼い時だった。今はもう私は大人になった、身体は大きく
なり、骨がしっかりして、心も強くなった。もうあの頃のように季節が緩やかに
過ぎ行く日々は還ってこない。)
限られた食料で生きてゆくのに、取る方法は二つである。即ち食べる量を減
らすか、そうでなければ、食べる人数を減らすか。妹はまだ七つに満たない、
弟も赤子同然である、誰かが死ななければ皆が死んでしまう、それでも口減ら
しをしなければいけない。弟も妹も、追い出せばきっと死んでしまう。幼すぎ
て、放逐すれば間違いなく野垂れ死にしかない。でも私なら、里を出ても何
とか生きてゆけるにちがいない。自分ひとりの口を鬻ぐくらいは、出来る。
(紅の斜光の中を何物にも染まらぬ強さで以って疾(はし)る黒衣の鴉、鋭い羽、私は大
きくなったのに、まだ鴉になれない。鴉の強さが、まだ分からない。)
私は強くはなれなかった、もう成長したのに未だ強くなどなれない。私一人の
口と引き換えに家族全員が餓え死ぬのを、弱い心は嫌がった。だので父母が何も言
わないうちに、里を出ることを決意した。
こんなやり方は贋物の強さだと思う。惨状を見たくないばかりに里から逃げ出
すなど、余程の愚か者だ。そんなより、里に残り何とかして食い扶持を稼ぐ方が
余程尊い。でも、鴉になれない私の精一杯の強がりでは、これ以上は望めない。
まだ夜の明けぬうちに、里を出ることにした。里のはずれには清流があって、
その向こう岸は既に里ではない。東の空にほんのりと色が宿る頃、そこを越える
ことにした。荷は持たず、身一つで山を越えよう。
そうして、朝を待たずにひっそりと家を出て、川岸に行った。夜の水流は黒々
と蛇のようにうねっている。薄ら寒いような不気味さのそれを、私は諦観で以っ
て見詰めていた。する
と、後ろに気配を感じて、振り返るとそこにハチがいた。彼は、あまり感情の伺
えない黒瞳を瞬きもさせず、ゆっくりと口を開いて、言った。
「何を、してるの」
ハチの少し長めの前髪の間から、しなやかに黒い目が覗いていた。鴉の色の目
だ。強い目だ。昔一緒に木の上を眺めた、優しい癖に強い目だ。
「何を、してるの」
ハチはもう一度、静かに言った。その声は憤りも悲しみも呆れも含んでいない
。けれど彼は聡い、私が何をしようとしていたかなん
てきっともう察していて、それでも私に答えを言わせるんだろう。感情の波立た
ない湖畔の目が、私をじっとみつめている。ハチの澄んだ水際を思わせる瞳の前で
、とても嘘をつく気にはなれない。私は言った。
「ここを、出て行くの」
「どうして」
「口減らし」
とても静かな会話だった。黒蛇の水の流れる音だけしか聞こえない。心はと
ても落ち着いていて、世界中が静寂を湛えている。ハチはけ
して私を諌めたりとどめたりはしない。静けさを崩さない。
「君は、自分が何をしているか、知ってるの」
「知ってる」
「普通口減らしは、年の小さいものから切っていく。大きい者は働けるからだ。
それは知ってるよね。君の家には弟と妹がいたけれど、二人はどうしたの」
「家に居るよ」
「二人より先に、君が切られるの」
「私がそう決めたの」
「君は、自分が何をしているか、本当に知ってるの」
ハチの鴉の目は、逸らされずに私に向かっている。その目は、とても静かなの
に、何故だかとても痛い。初めて私はハチの目線が厭だと思った。嘘がつけない
、紅い心臓の奥の方が、石を積んだみたいに重苦しい。
「それじゃあ、何の解決にも、ならないよ。そのことを、君はちゃんと、知って
るの」
私は黙った。知っている、知っているけれど、それ以外の方法が見つからない
、ただそれだけなのだ。
ついさっきまで凪いでいた心が、今少しずつ揺れているのが分かる。このまま
聞いていてはいけない、と私は思った。心が揺れれば、決心が鈍る。決心が鈍れ
ば、出てゆけない。ハチの静かな目が、私の心を駄目にしてしまう。胸の奥が鈍
く痛い。
私は、くるりと川へ向き直った。爬虫類の肌に似ている川面は黒々としていて
、底がうかがえない。
ゆたゆたととどまらずに流れてゆくのは、まるで粘膜のてらてらした
蛇が目の前を悠然と通り過ぎて
ゆくのに似ていた。
この向こう岸はもう里ではない。此処をわたれば二度と帰っては来れない。
口減らしは、年若の者から。そんなことは鉄則だ、よく知っている。働ける者か
ら切ってゆけば結局は共倒れになってしまうから、負担になる子供から捨ててゆ
く。そうしなければ生きていけない。私は足を川
面へと踏み出した。ぱしゃんと音がして、黒い水の流れに私の白い足がぽかりと
ういて見えた。そのまま歩を進めて、川の真ん中まで来た。このまま渡ってし
まえば、もう帰ってはこれない。
背中の方から、ハチの声が聞こえた。
「このまま渡ってしまえば、もう帰ってこれないよ」
静かな声が、しっかりと耳に届いてしまう。
「君に、その覚悟はあるの」
ああ、心が、乱れてしまう。
「覚悟は、あるの」
心が、
急に辺りが明るくなってきたので顔を上げると、日の出だった。朝日が、山間か
ら目の眩ような清浄な光を放っていた。最初はただ射る様に激しい白光だったのが
、徐々に黄金色を帯びて、世界がどんどん明るくなり、やがて枇杷色の光で
満たされ、世界があの日と同じ色になって、その瞬間に思い出の中のハチの科白を思
い出した。“帰るところがあるのは、とても幸福なことだよ。”
この太陽と同じ色の夕焼けの中で黒い鴉は空を裂いて小さな巣穴へ帰って行った
、私はどうして広い空から狭い巣へ帰るのか分からなかった、空はあんなに広いの
に、と思い、鴉は馬鹿なのだと思った。帰るところが当たり前にあったあの頃には
世界は幸福すぎて幸福の意味さえ掴めなかった。鴉は、本当は強く無かった。本当は
、鴉は、ハチは、帰るところを知っていただけで、それで私は、知らなかっただけ
で、
ああ、もう、駄目だ。と思った。
川の真ん中まで来て、足が進まなくなった。水は清浄な透明で、水晶めいて、きらきら
としていて、朝日はとても美しい枇杷色だった。後ろで小さな水音がして、振り返
るとそこに黄金色に染まったハチがいて、黙って手を差し出した。黒い目は、静か
な水面のようだと思う。私は、手を取った。そして、 綺麗だね と言った。今は
もう何が綺麗なの
か知っている、綺麗なのは世界だ、それ以上に、ハチの瞳だ。私の目が世界を見る
ことができるから、今世界がとても綺麗だと思う。
ハチは、何も言わず、そっと私の手を引いて、里へと帰ってゆく。