1664年 山形

小坊主はお使いを済まして寺への道を急ぐ。日はとっぷりと暮れて黄昏時、薄暗くて頼りない。道の先か ら、お寺の鐘をつく音が響いた。腹の底に響く低い音、山の方で鴉が飛び立った。小坊主は帰途を急ぐ、 道の両脇に無造作に転がる死体が不気味だった。

疫病が流行している。
咳をし始めたと思ったらもう危ない、たちまちに高熱を引き起こし真っ赤な顔をして死んでしまう。栄養 状態の悪い村民などは一たまりも無い。寺のふもとでは、病が大手を振って田の周りを駆け回っている状 態だった。
道の両脇には、そんなわけで、死体がごろごろしている。かっと目を見開いている死体は苦悶の表情を浮 かべているように見えて、正視に堪えない。そろそろ腐臭のし始めた遺体は眼窩が落ち窪んで鼻先が溶け 出しているのが恐ろしい。小坊主は、寺住まいの癖に、死体が怖くて仕様が無かった。
もともと豊かな土地ではない。自分たちが食べるものを作るので手一杯だ。人が死ぬと田に手を入れるも のが減るので、必然的に食べるものに困窮することになる。そうすると、またたくさん人が死ぬ。使いの 先の門にもたれかかって座っていた男は、こけた頬をして宙を見ていた。死んだ魚の目をしていた。小坊 主は、地面を睨みながら足早に通り過ぎたのだった。

寺では、住海上人が即身成仏に備えて木食行をしている。木食行というのは、五穀断のことなのだそうだ 。穀物を食べずに1000日間修行する。では何を食すのかといえば、松の甘皮を干して叩いて柔らかくした ものを食べている。何度も何度も良く噛んで、口の中で繊維が解けてしまうまで噛んで、そうして飲み込 む。木食行の間も日々の修行は欠かさない。住海上人は今や、骨と皮の人形のようだ。
小坊主は上人に仕えているが、即身成仏というのが何なのか知らない。上人に聞くのは憚られたので、年 嵩の僧に尋ねた。
「御仏になる秘術だ」
五穀断をして肉を削ぎ落とし、身を清めて、漆喰で固めた箱を地中に埋めた中に一人ではいる。箱からは 節を抜いた竹が一本突き出していて、そこから空気が入ってくる。箱の中で上人は鈴を鳴らしながら経を 唱えている。中から音が聞こえなくなったら、そのときは竹を抜いて箱を完全に地中に埋めてしまう。何 十年も経過した後、箱を開けると、上人の身体は水気を失ってからからに乾いた姿になっている。
「それが、御仏だ」
上人も御仏になるのだという。

小坊主は常日頃住海上人に仕えていた。上人の身の回りの世話をする小姓のような役目を負っていた。小 坊主は覚えている、二年前の事だった。その年、村は重税に喘いでいて、やはり道には死体がごろごろと 目に付いた。小坊主は上人のお付きになったばかりで、些細な事にも不案内なために始終不安げな面持ち できょろきょろと左右を窺っていた。夕暮れ時に、干からびた田が夕日で真っ赤になった光景を見たのも 、あの年だったと思う。寺の中も外も息苦しい時だった。
寺の中には、生来学に秀でていた為に入寺を果たしたというような高僧もいるが、上人はそうではなかっ た。小坊主は風の便りに、上人はもともと奴婢の類の出だと聞いたことがある。重い労働に耐えかね、寺 に駆け込むようにやって来て、そのままいついてしまったということらしい。そして寺で修行を積み、今 では信望厚い高徳の僧になった。もともとが肉体労働に従事していた経歴から、上人は寺でも学識を積む より、身体を使って善行を積む方を好んだ。例えば山に出て薬草を積み村で売るだとか、農民の田畑の手 伝いをするとか、護岸工事の主導をするだとか、そういった慈善行為を行った。献身的な上人の態度は閉 鎖的な農民の人望を勝ち得、じきに聖人、生き仏、生き神とまで言われるようになる。
二年前には上人は既に寺でもかなりの地位を得ていて、毎日、寺を出て山を降り、村で農作業の手 伝いをしていた。小坊主は毎日寺の門の前で上人を見送った。寺で為さねばならない勤めがあって、上人 の後を付いてゆくことは出来なかった。
ある日、小坊主は上人に役目を言い付かった。指定の薬草を積んで寺に戻ってくること、小坊主が言われ たとおりの草木を採取して帰ってくると、上人はそれを煎じて、何回分かに分けて薬包紙に包み、付いて 来いと一言だけ言って山を降りた。着いた先は粗末なあばら家で、入り口には井草を編んだだけのものを 吊るしてあった。上人が一言入り口で声をかけると、中から出てきたのは骸骨に皮を貼り付けたような痩 せこけた女で、髪の毛が抜け落ちており、表情に乏しい顔に垢染みた深い皺が刻まれているせいでひどく 年老いて見えるのだった。上人は手に持っていた薬包紙を全て女に渡した、すると、女の青黒い面持ちが ぱっと変わった。
女は泣いて、それから笑った。その笑顔で小坊主は女がまだ若いことに気付いたのだった。
薬包紙を胸に押し抱いて、女は地面にへばりつくように上人の足元に跪いた。額を地面に押し付けて、女 は泣いていた。嗚咽に混じって、念仏の声が断片的に小坊主の耳に届いた。上人は、二言三言女に何か声 をかけてから、そのあばら家を後にした。女はずっと地面に伏せたままで、小坊主は何度も振り返り振り 返りしたが、女の姿が見えなくなるまで、その顔が上がるところを目にすることは出来なかった。

住海上人が即身成仏のための木食行をはじめたのは、それからすぐのことだった。

上人は猫を可愛がっていた。その猫はもともと野良だったのが、いつの間にか寺に出入りするようになり 、痩せこけてあばらの見える肢体を哀れんだ上人が猫を餌付けてしまったのだった。おぬい、と名をつけ た。大きな上人の掌の下で、小さな猫はみぁ、と鳴いた。

「住海様、おぬいが餌を食うてくれません」
小坊主は、亡霊のような上人に訴えた。座った姿勢が保てなくなった為に、床に臥せたまま読経をするよ うになっていた上人は、いぶかしげな顔をした。
「住海様が、」
    飯を食うてくれたなら、
続く言葉を、飲み込んだ。
    おぬいも、食うてくれるやも知れません。
上人は、死人のような青い影を纏って、沈黙している。倦み疲れた顔をして、折れてしまいそうな身体 で。

千日の行が、終わる。
千日目の終わりには上人は地中の箱に入る。地上の最後の日、上人は寺を降りてふもとの村を見て回っ た。極限まで肉の落ちた身体では一人で歩くことが出来ず、それでも行くといって聞かない上人の身体 を、小坊主は支えて歩いた。驚くほど軽い身体は、先日背負った薪の束よりも軽かった。
村人たちは、最早歩くこともままならない上人の姿を見て、畏敬に打たれたような顔をした。一人が地 面に膝をついて手を合わせると、一人、また一人と跪いて合掌した。枯れ枝のような上人の周りで、同 じく病み衰え骨と皮のようになった村人たちが、縋り付く様に一心不乱に拝んでいる。上人も、震える 手で、合掌をした。地べたに伏せるように上人を拝んでいた老婆の頬は濡れていた。

小坊主は、毎日おぬいの様子を見に行く。猫は、来たときのようにぼろぼろになってしまっていた。毛羽 立った身体は薄汚れて、もう一声だって鳴くことは出来なさそうに見えた。転がったまま、ぴくりとも動 かない。こけた胸が呼吸のたびに頼りなく膨らむだけが、生きている頼りだった。
上人の埋まった土の箱から突き出した竹を通して、鈴の音が聞こえる、読経の声が聞こえる。猫は、上人 が寺から消えたその日から、ついに何も口にしなくなった。どんなに呼びかけても、鼻先に餌を突き出し ても、何の反応の返さなくなってしまった。それでも、小坊主はおぬいを見捨てることが出来ずにいる 。
「おぬい、」
その時、おぬいの身体がぴくりと震えて、薄く目が覗いた。四足が痙攣して、立ち上がろうとでもするよ うに、微かにもがいた。そして、みぁ、と一声、聞こえるか聞こえないかの朧げな鳴き声を最期に、
「おぬい、」
永遠に瞼を下ろした猫の、乱れた毛を柔らかに撫でた、その時、小坊主は、竹筒から鈴と読経の 音が聞こえなくなっ たことに気付いてしまった。