ある日、大学で講義を受け終わって伸びをしながら窓の外を見ると、野良猫が蛇を捕食していた。可 愛い顔をした猫は思いがけず鋭い牙を剥いて、蛇に襲い掛かった。蛇は激しく身をくねらせていたが じきに力を失い、猫の口からだらりと垂れ下がった。そして猫は蛇を咥えたままその場を立ち去った 。咥えたまま引きずられる蛇は、ロープみたいに見えた。猫の他愛ない玩具としてのロープ、何故な ら猫は余りに可愛い顔をしていたので。
 驚きのあまり隣の席で筆箱やらノートやらを片付けていた男子生徒に「あれ見て、あれ」と口早に呼 びかけた。良く見るとその男子生徒は見も知らぬ赤の他人だったけれど、それどころではなかった。 彼は面食らったようだったけれども、一瞬の躊躇の後、身を乗り出してその光景を黙視した。私のよ うに取り乱すことなく。猫が蛇を引きずって退場してから、淡々とした声音で、言った。「生きてる んだから戦わなきゃならない」

 その言葉はまるで呪文のようだった、「生きてるんだから戦わなきゃならない」。そうだ戦わねばな らない。次の日私はいつもより強くアイライナーを引き、いつもより濃い色のグロスを塗った。それ から初めて香水をペチコートの裾につけた。身動きするとふわりと良い匂いが漂った。

昔ある大女優が記者に「夜寝るときは何を身に着けているのですか?と」聞かれ「シャネルの五番よ」と答 えたという。彼女は一人寝の寝室でさえ戦う姿勢を忘れなかった。


 化粧も服装もきっちりと固めてから、今日が休日であることに気付いた。けれどもこの気合の入った 戦闘体制を無駄にしてしまうのは忍びなくて、ブーツを履いて外に出た。ブーツは底が硬く、歩くと カツカツと高い音がした。響く足音は過ぎた自己主張をしているようで本当は苦手だったけれども、 じっと我慢する。このブーツも、一つの武器だったので。例えば込み合った道を強い靴音で歩いてい るとそれだけで人は避けてくれたので、細く道が開けた。それは一つの勝利だった。
 生きているから戦わねばならない、戦う為に装甲を固めた。装甲は重かったが耐えねばならないと思 った。

 人込みが嫌いだったので、休日に外に出ることは滅多に無かった。なので今日と言う日曜日に何処へ 行けばいいのか分からなかった。改めて見回せば殺人的な人込みであり、この中をすり抜けて買い物 をしたりするのは自殺しにいくようなものだと途方に暮れ、急速にどうでもよくなり自棄気味に近く の映画館へ入り込んだ。そこでは、古い映画を垂れ流しにしているようだった。座席に座って鑑賞す る。
 そこはさびれた映画館で、座席数は少なく、いちいち小汚かった。扉の取っ手は古めかしい装飾が施 されており、黄ばんだ壁紙はガムテープで応急の補修がなされていた。お金を払って席に座れば、何 時間座っていても文句は言われないようで、実際随分長い間席を占領しているらしい客もいた。総じ て言えば、映画館からは何ともいえない負け犬風の匂いがぷんぷんした。私は自分から香水の香りが 漂うのが、ひどく場違いな気がして恥ずかしくなった。

戦わねばならない、どうせ戦うなら勝利したい。例えば残り一枚のブラウスに同時に手を伸ばしたら 、相手を無視して自分がブラウスを手にとらねばならない。例えば混雑したレジで少しでも早く処 理してもらうためには、誰かを押しのけてでも短い列に並ばなければならない。例えば駅前で呼び止 められるチラシやアンケートは、最初から存在しなかったように無視し、傲慢に通り過ぎなければな らない。
昔、どこかの独裁者は、虐殺されたくなければ 虐殺せよと命令した。真理だ。


 映画は実につまらない。ストーリーは無いに等しく、ひたすら主人公の男性の日常が続く。終盤で、 主人公の男性は化粧を施しおめかしをして意中の少年を付回すのだが、その時突然主人公は心臓を押 さえ大きく喘ぎ、苦しそうな呼吸をした。顔からだらだらと汗が流れ、涙が零れ、涎が垂れ、そうい う諸々の体液で彼の化粧はぼろぼろに崩れた。目元の化粧が涙で流れ出し、黒いしずくが顔を伝った 。男はそのまま死んだ。

敗北は許されなかった。戦うからには勝利に向けて恒常的な努力が必要だった。負けると言うのはど ういうことだろうか。例えば、中身の乏しい財布。例えば、映りの悪いテレビ。例えば、隙間風の冷 たい寝床。例えば、公園でくるまる新聞紙。例えば、杖をつき歩いている老人。例えば、夏の終わり の蝉の残骸。例えば、踏みつけにされた奴隷。
昔、どこかで行われたジェノサイドの犠牲者の 死体はブルドーザーで一所にかき集められ、そのまま 捨て置かれた。誰も埋葬してやろうとは思わなかった。


生きてるんだから戦わなきゃならない。三秒数 える間に世界のどこかで誰かが死に、三秒数える間に世界のどこかで誰かが産まれる。世界で はいつも誰かが負け、誰かが勝ち、不断の戦闘が行われてい る。


 映画を見終えて、帰宅した。化粧を落とし、服を着替え、ソファに沈み込み、このままここで動かず に一生を終えることは出来ないだろうかと思案した。どうにかして戦わずに生きていたいのだと思っ た。けれどもそれは不可能だとすぐに悟った。どんなときであれ戦わねばならなかった。常に勝利を 志向せねばならなかった。生きてるんだから戦わなきゃならない。戦わなきゃならない。