「ダラガーヤ、可愛いダラガーヤ、」
 アリョーシャの歌声は、囁きにも似て、優しい声音が美しい。私は黙って耳を澄まして 彼の歌声を聴いている。
 アリョーシャは私をダラガーヤと呼ぶ。 Дорогая 、親愛なる呼びかけの言葉、私 にその言葉は似合わないのだと言ったのだけれども、彼は聞き入れてくれなかった。ダラ ガーヤ、なんとも幸せな響きだと思う。
 アリョーシャが歌を止めて言った。
「ねぇ、こっちへ来て、手を握っていて、」
 彼の腕は細い、まるで冬の日の枝みたいに、触ったら崩れてしまいそうな、折れてしま いそうな、蝋人形のように白く冷たい肌の腕。溜息のような声で、ダラガーヤ、と言った のが聞こえた。
 握ったその腕の下で、彼の体温がじんわりと暖かい。小さく、脈打つ音が伝わる。手 のひらに、鼓動が伝わる。とくん、とくん、とくん、 脈拍は私より速い、子供みたいに 速い、消え入りそうにか細い音は、それでも手のひらにもどかしい感触を残す。蝋人形の ような腕、血管さえ見えない白い腕、日の光の当たらない国の肌の色、その下で生命を主 張する早い脈拍、  ああ、脈が速い。
 彼は安心したように歌いだす。

  Полюшко-поле
  Видело немало горя
  Было пропитано кровью
  Прошлого времени кровью

 聞き覚えのあるメロディーにはっとする。これはポーリシュカポーレだ。これは英雄の 歌だ、草原をかけて死んでいった英雄の歌だ、剣をかざして馳せた英雄は 、最後には草原を紅く染めて死んでしまった。ポーリュシュカポーレ、紅く染まった草原 の歌だ。彼は、どうしてこの歌を? アリョーシャの歌はやまない、歌の合間の息継ぎが 浅く細く、苦しそうに聞こえてならない。腕の脈拍はどんどん速くなってゆく。


* * * * *


 昔聴いた話である。ある生物学の話である。
 そもそもあらゆる生命体が一生の間に打つ脈拍数は等しいらしい。つまり、蟻の様 に寿命の短い生物は単位時間の脈拍数が多く、象の様に寿命の長い生物は少ない。例えば全 ての生物は一万回脈を打つことに定められているとすれば、蟻はたったの数年で一万回を 消化し、象は数十年かけて消化する。つまり、蟻の脈は早く、象の脈はゆっくりというこ とだ。
 だから、と誰かが言っていた。だから、脈拍の早い人には注意しなければいけないよ、 早死にしてしまうかも知れないから。


* * * * *


 昔聞いた話である。ある国の歴史である。
 ある時どこかの国で革命が起こった。王侯貴族の政治形態に耐えかねた民衆の革命、沢 山の血の池と死体の山を築いて革命は成功した。世界史上初めての共産主義国家の誕生だった 。その時に歌われた歌がポーリシュカポーレ、血まみれの草原と草臥れた死体の山から聞 こえて来たメロディーがポーリシュカポーレであったという。
 だから、と誰かが言っていた。だから、あれは死の歌なんだ、哀しい死の歌なんだ、易 い気持ちで歌っちゃいけないんだよ。


* * * * *


「ねぇダラガーヤ、聞いて。大事な話があるんだ、ちゃんと聞いて」
 アリョーシャが正面から私の目を覗き込んだ。色素の薄いアイスブルーの瞳、陶磁器より も白い彼の肌の色と相まって、アリョーシャは夢みたいに淡い色彩を纏っている。彼は存 在そのものが夢の様だ、触れれば消えてしまう淡い夢のような人だ、そのくせ誰より早い 脈拍で生き急いでいる馬鹿な人だ。
「あのね、そこの机の三段目の引き出しに、鍵が入ってるんだ。銀行の金庫の鍵だよ。そ の鍵と印鑑を持って銀行に言ったら、金庫を開けてもらえるからね。全財産をそこに預け てる。忘れちゃ駄目だよ」
 脈が早い、早い、生き急ぐ彼の脈が早い。どうしてこの人はこう生きる欲が希薄なんだ ろう。人間の一番基本的な欲望は生きるということだ。それを蔑ろにする様になったら、 もう人はおしまいだと思う。どうしてもう少し、ゆっくりと鼓動を落ち着かせることが出 来ないんだろう。
「それから、家の始末のことなんだけど、君の好きにしてくれたらいいからね 。壊してもいいし、売ってもいいし、そのまま放っておいてくれてもいい。ああ、でも家 具と電気製品は古いから多分良い値では買い取ってもらえないよ。早い目に捨てた方が良いんじゃ ないかな。それと、鍋とかお皿とかは、君が使ってくれたら嬉しいな」
 握っている腕が冷たい。体温が無いのではないだろうか。この人はちゃんと生きている んだろうか。いつの間にか身体が冷え切っていて実は死んでいた、なんて冗談にもならな い。この人はこの国の気候に似ている。一年の半分は雪に閉ざされている寒い国、夏にな ると白夜がやってきて一日中太陽が昇らない国、この国の人は皆色素が薄い、まるで生き ていないみたいに白い。日光に当たらないからというそれ以上に、この国の人たちの生へ の関心の低さを物語っているように思う。
「お葬式は、しなくて良いから。お金をかけるのは肩がこるし、面倒だしね。ただ焼いて くれたら良いよ、真っ白な骨になるまでちゃんと焼いてね、さらさらの粉になったら、埋 めるなり撒くなり、君の好きにしたらいい。でも、骨の始末は君の手でやって欲しい」
 ポーリュシュカポーレ、草原に死ぬ英雄。緑の野原を紅く染めて満足げに死んでゆく英 雄、どうしてそんな風に簡単に死ねるんだろう? 家族はいなかったのか、恋人は、友人 は? 残される方の気持ちを考えたんだろうか? きっと英雄は考えなしだったのだ、さ もなくば情知らずだったのだ。もし英雄が父親だったなら、子供は父無し子だ、下手をす れば孤児になる。もし英雄が夫だったなら、妻は寡婦だ。世間は孤児と寡婦に厳しい、経 済的にも心情的にも。剣を取って戦うよりも、鋤を取って畝を耕す方が尊い事もある。
「それからね、それから、これが一番大切なことだよ。ダラガーヤ。可愛いダラガーヤ。 ちゃんと聞いて。こっちを見て。この約束だけは絶対に守らないといけないよ、忘れたり したらいけない。ダラガーヤ。僕の眼を見て、誓って。守るって言って」
 ダラガーヤ、と呼ばれて、顔を上げて彼の眼を見つめると、ひどく真剣な顔をしていた ので、何だかとても厭な感じがして、聞きたくないと思った。アイスブルーの眼は凍って いるみたいだ、冷たい肌は冬の山風のようだ、私を凍えさせる。
「約束してね、僕が死んでしまったら、僕のことは、全部忘れてしまいなさい」

 ああ、この人は、やっぱり、氷のような人だ。冷たくて凍えさせてしまう、酷い人だ。

(今回の一週間の里帰りが終わったら僕は病院に戻るけど、君はもう看病に来なくても良いよ)
(もう僕のものは全部始末してしまって構わないから)
(多分じきに死んでしまうけれど、その時は僕の事は忘れてしまってね)
(忘れて、そうして、)

 馬鹿な人だ、この人は馬鹿な人だ、本当に馬鹿でどうしようもない。もっとゆっくり呼 吸していればよかったのだ、もっとゆっくり心臓を動かしていればよかったのだ、もっと ゆっくり脈拍を落ち着かせていればよかったのだ、もっとゆっくり生きていればよかった のだ、そんな風に急いで生きているから、生き急いでいるから、死に急いでいるから。

(生きているものはみんな一生の間に打つ脈拍の数が決まっているんだよ)
(だからあんまり脈が早いと早死にしてしまう)
(ポーリシュカポーレはね、本当は哀しい歌なんだ)
(哀しいけど、だから綺麗な歌だね)
(でも君は歌っちゃいけないよ)

 ああそうだ、そうだった、脈拍の話も、ポーリシュカポーレの話も、みんな、みんな、貴 方が教えてくれた話だ。真っ白な病室で、ベッドの上で話してくれた物語だ。毎日毎日、小 さな四角いベッドの上に臥せって外に出られない貴方は、代わりに心を色んな所へ飛ばす ことができた。細い腕に太い点滴の針を刺して、手術後は身体を起こすことも出来ないくせ に、一生懸命私を楽しませようと、いろんなことを貴方は教えてくれたのだ。そうして身体 に無理を強いて、ただでさえ早い脈拍をより一層早めていたのだ。看病していたのは私では ない、アリョーシャだ、貴方がベッドの上で私を治療していたのだ。

(この部屋は小さいけれど、心はこんなところには収まらない)
(どこにだって飛んでいける)
(さぁ今日はどんな話をしようか)
(毎日来てくれて大変だろう、ごめんね)
(看病してくれて、ありがとう)
(ありがとう)

「ダラガーヤ、ごめんね、ねぇ泣かないで、泣かないで」

 長い病院暮らしですっかり細く白くなってしまった、そんな腕で、そんな身体で、

「泣かないで、ねえ、好きだよ、泣かないで」