もう長い間獄に入っている。ソビエトでは「疑わしきは罰せよ」の原則の下、疑惑が掛かれば即座に入獄
、碌な取り調べも裁判も無いまま刑に処される。社会主義者にしてみれば、人間は総体で見て国民と名づ
けられる存在であり、そこに個人の権利は生じない。よって、この国の人間の命は、限りなく軽い。
反ソ連活動に加担した罪で獄に放り込まれて以来、取調べは日々苛烈を極めたが、ヴラジーミルは口を割
らなかった。「グループの協力者の名は?」「アジトは何処に?」「内通者の在不在は?」 取調官の人
権の観念は限りなく低いから、尋問は自然詰問になり、拷問に代わる。それでもヴラジーミルは屈しよう
とはしなかった。正直に答えたとして、自分の持つ情報を残らず吐き出してしまえば、利用価値の無くな
った囚人の末路はしれていたし、それならば答えない方が幾分ましである。度の過ぎた責め苦でいけなく
なってしまったとしても、いずれ死ぬという点では変わりないし、それならば自分の主義を貫いていたい
。だんまりのヴラジーミルに手を焼いた審問官は、手を変え品を変え自白を迫ったが、ヴラジーミルは意
志を通した。担当の審問官は匙を投げて、担当者を変更し、その担当者も任務放棄し、その繰り返しでヴ
ラジーミルの審問官はころころ変わった。
そうして、一人の審問官がやって来た。彼はやって来た初日に、自分が最後の審問官になるだろうことを
ヴラジーミルに告げた。その意味するところは、自白か死か、いいほうを選べということだった。ヴラジ
ーミルは黙秘を押し通した。
救いは、最後の審問官が比較的人道的なタイプの士官であったこと、人間の言葉が通じる男であったこと
、同情を忘れないほどには人間味を残していたこと………最初の日から幾日幾ヶ月が過ぎ、最後の審問官
の任期が終わりに近づいていた。
* * * * *
通常取り調べは夜に行われる。小夜中に始まり夜明けに終わる、その訳は、囚人の体力気力をすり減らし
速やかに自白へと導く為らしい。ヴラジーミルの場合も例外ではなく、夜寝ているところを叩き起こされ
て取調室へ向かい、窓の格子の隙間から白っぽい朝の光が差し込む頃にそこをおん出される。けれども今
日は様子が違った。まず第一に、いつもなら警備官が荒っぽく蹴り起こすところが、今日は誰にも起こさ
れず一人でに目覚めた。部屋の中にも外にも灯りが無いことや忍び込む冷気の冷ややかさからまだ夜らし
いと分かったが、それでもいつもより随分時刻が遅いように思われる。此処は取調室ではなく自分に
与えられた独房である。今日は取調べは無いのだろうかと首を傾げた。
すると、暗闇に包まれた部屋の片隅から声が聞こえた。
「ヴラジーミル・イヴァーナヴィチ・シュラーニン。目は覚めたか」
思わず背筋の伸びるような低く厳しい声だった。聞き覚えがある、どころか聞きなれすぎているくらいの
この声は、審問官の声ではないか。
「ヴラジーミル・イヴァーナヴィチ・シュラーニン。返事をしろ」
「ダー(はい)」
「よし。ヴラジーミル、これは最後のチャンスとなる。今日が、お前に与えられた最後の日だ。今日を以
って私は審問官の任を終え、次のおまえの担当審問官は二度と来ない。これが何を意味するか分かるか」
「ニェト(いいえ)」
「今日、これから、おまえが私の質問に答えなければ、おまえは生きてはいないだろうということだ。私
は今銃の保持を許されている。この意味は分かるな」
「ダー(はい)」
「よろしい。問うべきことは、一つきりだ。お前たちの頭領は、今何処に居る?」
「………………」
「知っている限りで良い。お前たちのリーダーは、一体いくつの隠れ家を持っていた? そうしてそれは
何処にある? 今お前たちのリーダーは、どこにいると思う?」
「………………」
「答えの無い場合、証言の意思無しとして処分される。正直に話した方が懸命だ。お前たちのリーダーは
何処だ」
「………………」
「だんまりは止せ。ダー・ニェトの回答もうんざりだ。お前の口から、意味のある単語が聞きたいと言っ
ている。何処なのか言ってしまえ。今日が最後の日だ」
「………知りません。知っていたとして、舌にのせることはできません」
応酬は数刻止んだ。重い沈黙が部屋を支配した。暗がりの中、ようやく目が慣れてきて審問官の姿の輪郭
が捉えられるようになってきた。独房の入り口に近い角に背筋を伸ばして立っている。暗くて表情までは
窺えない。
「どうしても答えないつもりか」
審問官は言った。返事をすべきかヴラジーミルは逡巡した末、言った。
「答えることは出来ません」
「それは知っているが答えるつもりは無いということか」
「どうとでもお好きなようにとってください」
また沈黙が降りた。今度の静寂は先ほどのよりも長かった。審問官の衣擦れの音と、それから溜息の音が
独房に響いた。
「おまえはシベリヤの方の出だと言っていたな。そこには母と、妻が居るとも言っていたな。母親は年だ
ろう。妻も身重だろう。今年の冬を、女二人っきりで越えさせるつもりか? お前が答えたなら、私が取
り計らって冬の前にシベリヤに返してやってもいい」
「………それをあなたが言うんですか。里に妻と子供を置いてここにいる、あなたが?」
「今は私が質問しているんだ」
「いいえ、あなたにその資格はない、あなたは、自分も子を置いてきてしまったと言っていたじゃないで
すか。そんなあなたが、口に出来る言葉ではない」
ヴラジーミルは審問官を睨みつけようとしたが、暗すぎて、どこに審問官の目があるのか分からなかった
。
「子が生まれたら、お前の妻に子が生まれたら、その子をどうするつもりだ。父親は獄で死んだと、妻に
伝えさせるつもりか?」
「妻は強い女です。あなたが心配するようなことではない。それに、父親が獄でこんな風に処刑人じみた
真似をしていると知られるよりはましです。少なくとも父親は誇りを持って死んだと、伝えることが出来る
分だけ」
「誇りがなんになる、生きていてこそのもの、一言言ってしまえばそれで終わりだ、リーダーは何
処だ?」
「言いません。誇りと意志の無い人間は、生きていないのと同じです。私には矜持がある」
「命あっての物種だ」
「ただ呼吸をしているだけの人間など機械と変わりません」
「生きていれば機械でも構わない」
「構います! 私はあなたとは違う、機械になるくらいならいっそ死んだ方が余程いい」
ヴラジーミルは大きく息を吸った。声が独房に反響していた。
「私はあなたとは違います、審問官。СССР(ソビエト連邦)が滅びることを予知していながら、死に
かけの国家に従属しているあなたとは違う。私はそうではありません」
「口を慎めヴラジーミル。ソビエトは滅びない、ふざけた事を………」
「あなたがそう言ったんでしょう、滅びると、この国は長くないと! それなのにあなたは、腐肉の番
をする犬に甘んじている、意志に反する審問官を続けている、まるで機械のように! そんなのは、生き
ているとは言えない!」
「口を慎め。それ以上言うと発砲する」
ヴラジーミルは黙った。四方の壁に、言葉がわんわんと残響していた。動悸をうつ胸を押さえて大きく深
呼吸して、ヴラジーミルは黙った。
「―――――それでは、本当に、もう語る意志は無いんだな。誇りを捨てるくらいなら死を選ぶと、頭領
の居場所をいうつもりは無いと、そういうことだな」
「………はい、審問官」
審問官が、苛立たしげに息を吐いた音が聞こえた。審問官は、まだ若かった。ヴラジーミルと同年代の男
だった。審問官は感情的に言葉をつむいだ。
「誇りが、何か。矜持が何ほどのものか。そんなのは命に比べれば全然重要でもなんでもない。
妻や子に食べるものを与えることの方が、誇りなぞより、ずっと尊い。餓えに比べれば、ソビエトの犬で
あることなぞ何でもない。知っているだろうヴラジーミル、おまえなら知っているだろう、この牢の外で
、どれだけの農民が餓えているか、毎日何人の人間が飢餓で死んでいるか、知っているだろう。ここだけ
ではない、ソビエト中どこでも似たようなものだ。シベリヤだって変わらない。СССРが作物を狭窄し
ているから、どこもかしこもかつえている。そんなときに、誇りだって? そんな食えもしないものを後
生大事にして、子を飢え死にさせるのが、そんなに大切なことか?」
「そういう食糧事情だからこそ、ソビエトを倒すために活動をするんじゃないか!」
「おまえたちのやり方は悠長すぎる! 反ソ活動、大いに結構。だが、そうやってのんびりお上に楯突いて
いる間にも食べ物は必要になるだろう。おまえたち、反ソの者が誇り高い英雄的行為を成し遂げている間
も、妻や子は餓えていくんだ、それなのに矜持だって!」
審問官が荒い息を整える音が聞こえた。
「シベリヤの極寒は男手無しで越冬できるほど生ぬるいものではない。まして老婆と身重の女に、何が出
来る。そういうことを分かっていながら、ヴラジーミル、おまえは自白を拒否したんだ。何の役にもたた
ない誇りを捨てることができず居場所を口にしなかったせいで、お前は死に、そうしてお前が死んだせい
でお前の母や妻も死ぬかもしれない。それが本当に生きていることだと言うなら、私は死んでいた方がい
い。機械で構わない」
静寂が降りた。ヴラジーミルも審問官も何も言わない。窓の外の遠いところで、鳥の鳴き声が聞こえた。
夜明けが近いことを知らせる鳥の声が、暗い空に響き渡った。
その鳴き声をきっかけに、審問官はホルスターから拳銃を取り出したようだった。ヴラジーミルからは暗くて
見えなかったが、次いで安全装置をはずすガチリという音がして、その推測は確信へと変わった。
「もう一度だけ、これで本当に最後だ。ヴラジーミル、自白をしろ」
夜明けが近いようだった。鳥の声が響く。部屋は静寂に包まれている。ヴラジーミルは、いまや冷静だっ
た。そうして、落ち着き払った声で、言った。
「自白はしません。………あなたの言うとおり、私が母や妻を見殺しにするような愚か者だとして、……
…それでも、審問官、あなたとやっていることは変わらない。私もあなたも、人殺しです」
(私は母と妻と子を、あなたは私を。誰も犠牲にせずに生きていることなんて出来るわけがありません。)
審問官は答えなかった。空がどんどん白んでゆく、夜明けの匂いがする。
「ヴラジーミル、手を上げろ。跪け」
拳銃を構える。ヴラジーミルは反抗しなかった。独房の冷たい床の上に震える膝を立てた。つい今までな
んとも思っていなかった死が、いまや現実となって目の前に立ちはだかっている。恐ろしさで、歯が鳴っ
た。審問官は、続けていった。
「十字を切れ。ヴラジーミル、祈りの時間をやる。キリストに祈れ、最後の祈りを、」
その時、朝日が窓から差し込んだ。眩しいまでに清冽な一条の光が、窓から差し込んだ。その光は、一直
線に審問官の顔を照らした。審問官は、歯を食いしばって泣いていた。ヴラジーミルは息を呑んだ。
「十字を切れ、祈れ、神の慈悲を乞え、慈しみを、憐れみを、」
ヴラジーミルにとって救いだったのは、最後の審問官が人間の言葉の通じる事だった。数多い審問官の中
には人の話を本当に聞くことの出来る者が驚くほど少ない。最後の数ヶ月、ヴラジーミルは審問官と多く
の言葉を交わした。家族のこと、自分の主義のこと、譲れない考えや、明け方の光が驚くほど綺麗なこと
、自分の信仰のあり方、最期には神に感謝して死にたいという願い事をたてていること………
「十字を、」
ヴラジーミルは、審問官を祝福する言葉を呟いて、胸元で、十字を切った。