幼い時から頭を撫でられるのが嫌いだった。親戚縁者が集まる席では見知らぬ大人から必ずと言っていい ほど髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜられたが、私はそれが鳥肌が立つほど不快だった。「いい子だね」 「賢い子だ」と言いながら頭を一撫ぜする、あの動作には上から下への下賜の色合いがある気がしてなら なかった。階位が上のものが下のものに余裕を見せるための行為の気がしていた。有り体に言えば、馬鹿 にされているような気がした。年が上だと言うだけで軽蔑されているような気がした。正月や法事の行事 の度に私は我慢に我慢を重ね歯を食いしばって頭を差し出した。年頃になり「女の子だから」と髪の毛を かき混ぜるのを控えてもらえるようになった時は思わず歓声を洩らしたくなるくらいに嬉しかった。
 電車なんかには良く頭を持たせ掛け合ってうたた寝をしている男女がいる。私はあれを見ると妙に苛苛し た。お互いに甘えているように見えるのは軽率に思えたし、頭を相手に預けることで媚を売っているよう だとも思った。目を逸らしても何故か視界に入ってくる姿が癇に障り、結局車両を変えて席を移った。
 頭と言う器官は人体の中で最も価値の高い部位なのに、それを他人に易々と預ける気持ちが理解しがたか った。人間の要は頭にある。ものを考えるのは脳に於いてである。人を判別するのは顔に於いてである。 頭部には大事な部品が寄り集まっている。それを他人の手に無邪気に解放するのは我慢ならなかったし、 人の肩に預けて眠るなんて無防備なことは以ての外だと思った。

 私には一人変わり者の知人がいた。
 彼はハンドパワーを信じていた。掌から何か霊妙な物質が放射されて いて、それが人体に何かしらの影響を与えうると信じていた。
 そんな彼はよく人の頭をくしゃくしゃと撫 で回した。はにかんだような笑みを浮かべて、人の頭を「いい子いい子」する。冗談めかしているものの 、目が本気なのが分かる。まさか、ハンドパワーを頭に照射することで人を支配しようとでもしているの だろうか。そんなわけはあるまいと、頭では否定するのだが、彼の顔を見ているとあながち冗談でもない のかも知れないと思ってしまう。
 変わり者のレッテルを貼られた者の宿命として、彼はいつも妙に孤立している。ふと気付くといつも一人 でぽつんと立っている。輪の中に入っているときも、一人だけ心なしか困ったような顔をしている。何処 にいても彼は浮く。一人だけ違う時間軸に生きているような雰囲気を醸し出している。懸命に周囲とあわ せようとしているのは分かるのだが、その努力は空回りしているのが明白で、傍から見ていて痛々しい。 楽しそうに会話を交わしている輪の中でたった一人手持ち無沙汰な様子で立ち尽くしている彼の背中は、 猫背気味で、少し寒い。

 かく言う私だって、彼とは生きている次元が違った。喋っていても会話は微妙にずれた。優しく投げた会 話のボールは変則球となってかえって来て茫然とすることも間々あった。彼は私にも良く「いい子いい子 」をしようと手を伸ばしてきた。私は人に頭を触られるのは嫌だったので、いつもさり気無くよけた。そ のたびに彼は乾いた目で、私を見た。砂漠の兵士みたいに乾いた目だと思った。 彼はハンドパワーを信じている、 自分と違う価値観を持つ彼が一体どういう意図で他人の頭に触れようとするのか読めなくて、少し気味が 悪かったし、私が嫌がっているのを見て取れない彼に苛立ちも感じた。けれど、砂漠みたいに水気の失わ れた彼の目を見ると、(傷ついた兵士みたいな目だと思った。獣じみた鋭さ必死さと人間くさい哀しさが 同居する目だった。)自分が悪いことをしたような気がして、後味が悪かった。一度、良心の呵責に耐え かねて彼にこう忠告した。
「女の子は髪型なんかに神経をつかってるものだから、頭をかき混ぜるのはやめたほうがいいよ」
 彼は一応頷きはしたものの、次に顔を合わせた時に性懲りも無く私の頭を撫でようとした。

 一体彼がどうして頭を撫でることに固執するのか分からない。ハンドパワーの掌で他人の頭に触れること にどういう意味を持たせようとしているのだろうか。
 彼は鳥を飼っていたことがある。小さな文鳥だった。掌にすっぽり収まるサイズの白い鳥に、彼は尋常な らざる可愛がりようだったらしい。一度だけ彼に見せてもらったことがある。金属の鳥篭の中にわたされ た止まり木の上で、鳥は羽をつくろっていた。文鳥はさえずり一つ洩らさないのだと彼は言った。餌だっ て自分の手からは食べてくれないのだとも言った。彼の鳥は一向懐いてくれないらしく、そういう話を聞 いた後に見ると籠の中の鳥が実に傲岸不遜なように見えた。
 懐かない鳥を、彼は一方的に可愛がっていた。毎朝、鳥を籠から出し、嫌がるのを無理矢理手の中におさ めて数度指先で撫でるらしい。鳥とのスキンシップを欠かさないように。鳥はそれをいつも嫌がる、けれ ども彼は弛まず怯まず飽きもせず毎朝鳥を撫で回す。私の前で、その様子を見せてくれた。籠の中に手を さし入れると羽をばたつかせる文鳥を捕まえる、そして苦しくないよう優しく捕えて、その背を指で柔ら かに撫ぜる。その間文鳥は暴れることをやめない。その余りの嫌がりようだけを見ていると、彼が文鳥を いじめているように取れなくも無い。
 私がどうせ懐かないならもう構うのはよしたらどうかと言うと、彼はこうやって撫でているうちにいつか 通じ合う日も来るだろうからと言った。その言葉を聴いて私は気付いたのだった、彼がハンドパワーを信 じており、その霊妙な力で以って鳥と心通わせようとしていることを。諦めずに撫でる動作に愛情を滲ま せていれば、いつか懐いてくれると思っているのだった。彼の信じているハンドパワーは、そういう種類 の力だった。
 無理矢理籠の中から出して撫で回していたあの文鳥がその後どうなったのか、風のうわさに、逃げてしま ったらしいと聞いた。彼は文鳥の羽を切っていなかったのだと言う。鳥は、ある日彼の手をすり抜けて窓 の向こうに飛び立ったのだった。彼の分かりにくい愛情は文鳥にはついぞ通じなかった。

 彼の常識は変なところでずれていた。私のような一般人と彼のような奇人 との間には、暗黙の了解というものが通じな かった。世間で言うところの普通と彼の言うところの普通は、X軸数値こそ同じもののY軸数値がまるで かけ離れているようなものだった。ハンドパワーだって、彼の常識がいかに世間一般とずれているかと言 う一例に過ぎない。どうして彼が無闇矢鱈と他人の頭をかきまぜようとするのか、文鳥の一件で何とはな しにその理由がつかめたような気はしたが、それでも解せないことは多かった。

 ある折のこと、私と彼は恩師である先生に再会した。思い出話に花を咲かせ、ひと時の楽しい時間を過ご した。私も彼も、そして先生も、嬉しげに笑った。長の年月顔を合わせていなかった事など何のわだかま りにもならず、かつての日々がつい昨日の出来事だったかのように、言葉を交わした。胸のそこがふわふ わと温かい心持になった。彼だって同じように楽しんだはずだ。別れ際、先生は、「それでは君たちも達者 にね」と言った。私は今日の礼を述べて深々と頭を下げた。その時、彼は、ついと進み出て、何の前触れ も無く、あろうことか、先生の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
 空気が凍った。
 私は呆気にとられて一言も物を言えなかった。先生は顔をこわばらせ凍り付いていた。ただ一人、当の本 人だけが平然とした顔で「今日はありがとうございました」と言った。先生の顔が一瞬にして怒気に染まり 、目を見開いて一喝、「君は馬鹿にしてるのか!」 顔が真っ赤に染まって手がぶるぶると震えていた。 そして押し殺した声で「残念だ」と呟き、先生はさっと踵を返して足音荒く立ち去ってしまった。私や彼 の方を振り向くことは二度と無かった。
 先生の後姿が見えなくなってしまってから、彼は私のほうを振り向いて、どうして先生は怒ったのか問う た。私は彼の疑問を無視して、何故あんなことをしたんだと詰った。彼は、ただ先生に僕の気持ちを分か ってほしかっただけだったのに、と言った。僕はただ今日の感謝と先生への尊敬を態度に示しただけだ。 私は怒りで目の前が暗くなるようだった。あれじゃあ先生への皮肉かあてこすりでしかない、私まで先生 に嫌われた、そういう趣旨の罵倒を彼に浴びせかけたが、彼は途方にくれた顔をしていて、その様子が更 に私の怒りを増長させた。思いつく限りの悪罵で彼を非難する私を前に、彼は困ったような顔で思案して いたが、そのうちすっと手を伸ばしてきて私の頭まで「いい子いい子」しようとしてきた時点で、私の怒 りは爆発した。音高く彼の手を叩き払い、もう知らない、と捨て台詞をはいて、私は彼のもとを去った。 彼は始終困惑した顔で、ちっとも私の怒る理由が分からないようだった。

 先生の件で喧嘩別れして以来、彼は音信不通となった。私のほうから連絡をとろうとしない限り、彼の様 子が耳に入ることは無く、その事は彼がいかに私の現実から乖離した存在かと言うことを示しているよう に思われ、私は苦い気分を味わった。
 彼がいなくとも日常は却って順調に進む。ある日私の家の窓を一羽の文鳥が訪れた。手を差し伸ばせば指 先に飛び移るほどの人懐こい鳥だった。白い羽は薄汚れてみすぼらしく、哀れに思って指先で鳥の背を撫 でてやった時に、気付いた。この文鳥は、彼が大層一方的に可愛がっていたあの文鳥ではないか。
 一瞬の逡巡の後、私は鳥を捕まえて藤製の大きな籠に入れ、急いで蓋を閉めた。鳥は彼の元での嫌がりよ うが嘘のように大人しく、静かに籠の中に納まった。私は籠を抱えて、彼のもとを訪問した。彼は、その 方法の善し悪しは兎も角として、文鳥を慈しんでいた。そして今、実に大人しい文鳥が私のところに居る 。今なら彼の非常に分かりにくい愛情も通じるかもしれない。
 彼はハンドパワーを信じている。真偽の程は分からないけれど、問題はハンドパワーの効能の有無ではな く、彼が無条件にその力を信じていることなのだと私は思う。彼は、掌を相手に触れさせることで、自分 の好意や喜びが相手に伝わるのだと信じているんだろう。頭をかき撫でる、そうしたら、自分の心情や気 持ちが伝わると、彼は真面目に考えている。
 彼は在宅していた。私は玄関先で彼の手の中に藤の籠を押し付けた。籠の隙間から中身を除き見た彼はぽ かんと口を開けて私を見た。そして、なんで、とか、怒ってないのか、とかもごもごと口にした。私は自分 が怒るべき要素は何処にも見つからないことを伝えた。最初から怒っていなかった、と少しの嘘をついた 。彼が籠の中に手をいれると、文鳥は最初の大人しさを失い再び暴れだした。やはり文鳥に彼の分かりに くい慈しみは伝わっていなかったのだと思った。そして、彼が怯んで手を緩めた隙に、再び文鳥は空へ飛 び立った。二度と帰ってこないだろうという確信があった。
 彼は、茫然とした様子で文鳥を見送っていた。彼の信じるハンドパワーは文鳥には通じなかった、彼の好 意はいつも分かりにくいから、文鳥には通じなかった。変わり者の彼の真心は、いつも分かりにくく、伝 わりにくく、交流がひどく難しい。規格はずれの常識を持つ彼が何を考えているのか、私にはいつも良く 分からない。文鳥は飛び立って帰ってこない。
 「それでもありがとう」と彼は言った。私は何が「それでも」なのかいまひとつ理解できなかったが、恐ら く文鳥の事を言っているのだろうと推測した。彼が私の頭に手を伸ばしてきた。私は人に頭を撫でられる のが苦手な人間だったけれども、彼の掌が私の頭に乗っかるのを許した。ハンドパワーで人に気持ちを伝 えようなんてそんな馬鹿な話は無いと思いながら、彼が私の頭を撫ぜるに任した。
 それが、初めて彼が私の頭に触れた時のことだった。