ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴っている
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受け止めた証拠なのだ

谷川俊太郎 「朝のリレー」


* * * * *


この街では、寺院の鐘の音で一日が始まる。
街中のそちこちに聳え立つ砂色のモスク、ミナレットの頂で僧が鐘を鳴らすのだ。朝の祈りの時 間を知らせる音色と同時に、人々が地面にひざまずく。高い音、豊かな音、涼やかな音、鐘が一 通り響き渡ると、じきにミナレットから朝の礼拝の読誦、アザーンの声が聞こえる。
一日に五回行われる礼拝の中で、朝の礼拝が最も美しいとマーシャは思う。靄に包まれた静謐な 街、何処かから聞こえる窓を開ける音、微かな声、朝日を反射して黄金色に輝くモスク、そうし て鐘が鳴り、街は神聖なアザーンの声で満たされる。今だけは街中の人が祈りを捧げている。カ ーバの方向に向かって膝をつく、額を地につける様にして、ひれ伏す、皆がひれ伏す、今この瞬 間だけは、誰もの心が敬虔に、透明になる。マーシャも路上でひれ伏す。カーバは東の方向、朝 日に向かって祈る。
朝の礼拝が一番美しい。一日でこの時だけが静寂になる。毎日、街の中の何処かしらで悲鳴が聞 こえる、銃声が聞こえる、何かが壊れる音がする、ただ朝の礼拝の時間だけそれが止む。皆が祈 っているからだ、この時間だけは、戦いの音が消える。そういう協定なのだという。
マーシャは静かに跪く。アザーンが耳の奥にまで染み渡る、じんわりと身体のうちにはいってく る声だ。爆発音も飛行機の音も聞こえない、ただただ祈る、無心に祈る、何を思っているのかは 自分でも分からない。心が空っぽになる、身体が透き通るような幻覚を感じる、何か偉大なもの 、恐ろしく美しいものが自分の中を通過しているような感覚がある。
そうしているうちに、アザーンの声が最後の句を誦した。余韻が朝の街に静かに響く。マーシャ は頭を挙げ、立ち上がった。そうして空を見上げる、今日の空は青く澄んで、とても美しい。


* * * * *


アザーンの声が低い余韻と共に消えた。
タラトは投地していた身体を起こして、両の足で立つ。骨の目立つ足で、地をしっかりと踏みし める。少年期特有の成長に肉が追いついていない骨ばった体型という以上に、タラトは痩せてい る。
金色めいた朝の光に照らされて、街中が光の色に染まっている。朝靄でさえも、水蒸気や埃が光 に反射して、きらきらと光る。朝は金色の時間だとタラトは思っている、ただ空だけが透かし見 ることのできぬ青色だ。タラトはその光景をしっかりと目に焼き付ける、朝の金色、街中が金色 に染まる時刻、静寂に微かな物音。ミナレットの頂の鐘に太陽が反射して眩しい。
昨日、朝の礼拝は念入りにせよと言われた。
(明日の早朝の礼拝は特に丁寧にやると良い。いつもの略式じゃなく、きちんとした規則にのっ とったとびきりのやつを。いつもより腰を低くして祈れ。それから、アッラーに運と慈悲を願う んだ。その礼拝がお前の人生最後の礼拝になる、心してかかれよ。明日の”事”が上手くゆけば 、神はお前を褒め讃え受け入れてくださるだろう)
タラトは”事”に向けて準備をせねばならない。今日の午前十時ごろに決行の予定だ。その前に 、メンバーで最後の打ち合わせが行われる。手順の確認をした後、それぞれが持ち場について作 業を開始する。目標は領事館の爆破である。タラトは爆弾を積んだ車で建物に突っ込む役割を与 えられた。生きては帰れない役目を受けた時、誰よりも己がその訳に相応しいと認められた誇ら しさと他のメンバーに対する見栄とで胸が一杯になった。死ぬことは問題ではない、いかに生き るかが問題なのだと。
徐々に街中が起き出して来た。早朝礼拝が終われば一日の始まりである。小麦粉の焼ける香ばし い匂いや店を開ける音や、生活の気配が濃厚になる。タラトは朝が好きである。夜に死んでしま ったあらゆるものが朝になると生き返る、そういう朝が好きである。ところで今タラトの内に一 つの誤算がある。昨日生まれた矜持と見栄が夜になると死んでしまい、けれども朝になっても生 き返らない。代わりに、幾分以前に死んだはずの感性や疑問符が生き返った。そしてそれらが今 更になってタラトに意見する。―――――本当にそれでいいのか?
今やタラトは混乱している。金色の朝、街中に満ちた生きている気配、これを放棄してしまう事 への惜しみがある。それに相対するように、アッラーへの忠誠心やメンバーへの後ろめたさがタ ラトの背中を押そうとする。何が正しかったのか最早分からない。真に神が望む事とは? 信仰 を貫く事と、己や仲間やの命を優先する事と、どちらがアッラーの意に適っているのか?
もはや昨晩の拝命の折の功名心は絶えてしまっていた。タラトは空を見上げる、今日の空は青く 澄んで、とても美しい。


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イースフは、飛行機乗りである。
人に職を尋ねられたときは、飛行機乗りであるという事にしている。職業名ではないが、イースフ はそれ以外の何物でもないのだ。
小さな機体に身体をねじ入れて操縦桿を握れば、もうイースフは地上のものではない。大空こそが イースフの家である。特に朝一番の飛行は何物にも換えがたい。
空は良い。空は純粋で、美しく、穢れが無い。だから空が好きである。イースフは空が好きだ、そ して地上が嫌いだ。地上はごたごたと混然していてあやふやだ、道を歩けば乞食に行き当たる、爆 発音が唐突に響き渡る、下手をすれば銃撃戦に巻き込まれることもある。地上は実に不毛だ、やり きれない、救いようが無い。
空に上がるのは嬉しい。何故なら、地上が遠くなるからだ。地上は嫌だ、不潔で悲惨だ。ある日、 イースフが街を歩いていると駅に車が突っ込んだ。車には爆発物が積み込まれていて、突っ込んだ 拍子に勢い良く爆発した。駅は吹っ飛んだ。イースフは偶然その場に居合わせた、とはいっても爆 破はこの街では別段珍しいことではない。無感動で虚無的な気持ちのままそれを見ていた。耳をつ んざくような爆音と共に、そこいら中に瓦礫が降り注いで、駅の一角が崩壊してコンクリートの山 と成り果てるのを見ても、イースフは無感動なままだった。良くあることだ、日常的な出来事だ、 毎日朝が来て夜が来るのと同じくらいありきたりな光景だ。殊更に不感症な心持でイースフはそれ をただ見ていた。すると、不意にイースフは目の前に落ちているあるものに気付いた。それは手で あった。埃っぽい地面の上に無造作に、手が落ちていた。サイズは幾分小さく、大人のそれよりも 柔らかそうな―――――子供の手であった。手には肘から先が無かった、つまりそこに当然あるは ずの手の持ち主が不在であった。小さくて触ればふにふにと柔らかそうな、その子供の手は、地面 に何でもないかのように落ちていた、置いてあった。そうして次の瞬間、彼が強いて保ってきた平 静は脆くも剥がれ落ちたのである。イースフは口元を押さえ、目を閉じて現場からふらふらと逃げ 、ようやく人目の届かない場所まで来た時に、吐いた。彼は死体を見たのはそれが初めてでは勿論 なかった、血を流して冷たくなっている死体や腐敗して虫のたかっている死体を見る事だって稀で はない。けれども、その手を見て初めて、彼は現状の異常さを知ったのだった、人間が死ぬとはど ういうことか、彼はその瞬間にようやく悟ったのである。
あの日以来、イースフは地上にいるのが息苦しくてならない。街の中は残酷だ、死と暴力の匂いで 満ち満ちている、そんな地上がイースフには苦痛なのである。
地上では早朝の礼拝の時間である。不明瞭な朝靄に包まれたごみ溜めのような街にアザーンの読誦 の声が行き渡っていることであろう。彼はもうアッラーに祈るのはやめている。神の御名において 残虐が行われるなら、いくら祈ったところで始まるまい。
ぐいぐいと操縦桿を押し上げる、それと同時に機体もどんどん上昇してゆく。飛行機は空へと吸い 込まれてゆく、悲惨の無い空へ、銃声の無い空へ。イースフはずっと、このまま空に吸い込まれて 消えてしまえられればいいと思っている。思うだけでなく、願っている。もう、倦怠に満ちたこの 世界はいずれいけなくなってしまうだろう。
イースフはガラス窓越しに空を見つめる。今日の空は青く澄んで、とても美しい。


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小さなライラには家と親が無い。
加えて言うなら、生計をたてる手段もない。毎日がその日暮らしの路上生活者である。
この辺りではさして珍しい身分ではない。並べて労働意欲が高いとはいえないのは民族の性質なの か、この街には乞食の類が多い。そうして喜捨(サダカ)の制度に救われて、食べるだけなら案外 に何とかなるのである。
インシャラー!(すべてアッラーの思し召しのままに) ライラを含め、この街の底辺に住む人々は楽観 的である。取り合えずは食べるものがあり日々を生きていける、それ以上何を望むことがあろう。 すべては、インシャラーの一言で解決する。ライラにしても、守るべき家と従うべき両親が居ない のはある意味では気楽でさえあると思っている。
食糧事情の厳しくないこの街で乞食が死ぬのは、大抵病気か事故である。特に、栄養状態や衛生管 理のままならないライラ達にとっては病気は脅威である。ライラも、他の乞食同様、どちらにせよ 死ぬ時は楽ではあるまいとそれなりの覚悟はしている。
ところが、近頃になって状況が変わってきた。
まず、ライラの周りに死ぬ輩が増加した。昨日は居たはずの奴が見えない、となるともう死んでい る。どうして、いつ死んだのかとたずねると、昨日流れ弾に当たって死んだのだと言う。ライラの 仲間(とまではいえないにせよ、知り合いでは軽すぎる)は、ここ数週間で確実にその数を減らし ている。それに、サダカの食料が得にくくなった。ライラがよく売れ残りを貰い受けに行った角の 食堂の主人は眉根に皺を寄せて(お前にやる食料なぞないよ)と言った。別の店の女将は眉根を厳 しく寄せてただ首を振った。どうして、昨日まではくれたのにと訊けば、(状況が変わったんだよ 、自分の身が危ういときに他人の面倒まで見れるもんか)と言った。
もともと良くは無かった治安が、この頃は頓に悪い。ライラ自身に銃口が向けられることも、稀で はなくなっている。事があったときに真っ先に打撃を受けるのは底辺の人間である。今ライラは時 勢の暴風を真正面に受けて立ちすくんでいる。
肺の辺りが、最近じくじくと痛む様になった。己の死期が近いことを、ライラは悟らざるを得ない 。動き回ると余計に辛いし、またいつ何時銃弾が飛んでくるか分からないことを考えると軽率に行 動は出来ないので、ライラは己のねぐらとしている路地から出れなくなってしまった。ひどく咳き 込むようになってからは、感染を恐れてか誰も近づいてこない。通りすがりの人まで、嫌なしかめ っ面をする。いよいよ食料が手に入らない。このままでは病死より先に餓死するやもしれないなと いう嫌な考えが頭に浮かんだ。
動くと空腹が増すだけなので、寝転がったまま一日を過ごす。何処からかアザーンの声が聞こえて くる。鐘が鳴っている。ライラは瞼を開く、すると建物の間の細い隙間から空が見えた。今日の空 は青く澄んで、とても美しい。


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