「おや、小雪さんじゃないかね! また会えたなぁ、今度は随分久しぶりだった」
 普段は通らないような道を通っていると、白髪の老紳士に呼び止められて面食らった。見覚えの無 い人である。
「あの、何処かでお会いしましたか?」
 その上品な身なりの老人は満面に笑みを浮かべて「何を言っているかね」と言った。しかし私の名 前は小雪ではないし、やはりどう考えても老人に見覚えは無い。もしや痴呆老人だろうかと思った が、目の色はしっかりしているように見える。すっかり困ってしまって「失礼します」と言って逃 げるようにその場を去ってしまった。

* * *

 数日後、家に品の良い老婦人が訪れてきた。仕立ての良いワンピースを綺麗に着こなしていて見目 良い。所作は優雅であるし、若い頃の美姿が浮かんでくるような清らかな老女である。母か誰かの 知り合いだろうかと思わず見惚れてしまったが、聞けば私に用があるのだという。
「実は折り入ってお願いがありまして。先日そこの通りで老人に呼び止められませんでしたか?」 「ああ、はい。お知り合いですか?」
「小雪さん、と呼ばれましたでしょう?」
「ええ、まぁ」
「その件で、お願いがあるのです。どうか何も聞かずに小雪さんとしてあの人の話し相手になって いただけませんか。暇のあるときで結構ですから」
 私は呆気に取られて相手の顔を見つめてしまったのだが、婦人の顔は本気である。
「はぁ、その位なら、別に………」
 そういうと婦人は安堵の表情を浮かべて、「良かった」と呟いた。

* * *

 しかし、奇態な話である。良くわからない。小雪さんという人の振りをするというのも妙だし、第一 小雪さんとは誰なのか。
 連れて来られた家はやはり豪邸だった。今時珍しい和風建築で、上がり框もあれば床の間もある。広 い家ですねと言うと、婦人は二人住まいなので管理が大変ですと言った。例の老紳士と婦人との二人 住まいらしい。夫婦なのだろうか、ならばなおさら小雪さんの正体が分からない。
 話し相手になってほしいといわれても小雪さんの立場がよく分からない以上どういう風にすればよい のか分からない。婦人は相槌を打つだけでも良いというが。兎に角ぼろだけは出さないようにせねば ならないだろう。
 そうして、老紳士と老婦人と私の、奇妙な日々が始まった。

* * *

 老人はどこまでも紳士であった。話し相手になるといっても何を話せばいいのか分からないので自分 はさぞまごつくだろうと思っていたのだが、老人が気を使ってくれているのか、話題を中々絶やさな いようにしてくれる。また、時たま訪れる沈黙も老人の和やかな雰囲気のおかげか、どうにも心地よ い。
「おや、御覧よ。あすこの百日紅(さるすべり)が咲いている。綺麗な桃色だねえ」
 老人は大抵庭向きの部屋かそれに付随する縁側かにいるので、必然的に私もそこにいることが多い。 庭は家にあわせてちょっとした日本庭園のようになっている。老人が指差した方を見ると、大きくて とても立派な百日紅が満開になっていた。
「本当に。とても綺麗です」
「小雪さんは確か躑躅(つつじ)が好きだったねぇ。躑躅は、そら、あの脇の方にある。今は季節じ ゃないから葉っぱだらけだが、春になったらそれは見事な日本躑躅が咲くよ」
 刹那、答えに詰まってしまったが、咄嗟に相槌を入れた。小雪さんは躑躅が好きだったらしい。私自 身はさして躑躅が好きなわけではない。一体小雪さんという人は花に心を砕く性質の人だったようで 、老人はよく私に庭の草木についての話題を振ってくれる。老人自身も庭弄りが好きなようである。

* * *

「あの松も随分年をとった、虫が食っているし長くは無いかもしれないなあ」
 老人がそう言って溜息をついた。庭の真ん中にはたいそう枝振りの良い松が大きく枝を張っているの だが、それのことを言っているらしい。あまりに成長しすぎているので、上から枝を吊り上げている 。あそこまで育って入るところを見ると、年代物なのだろう。けれども、私にはまだまだ丈夫な松の ように見える。
「そうなんですか? 私にはあの松はまだ長生きしそうに見えるんですが」
「いや、もう長くは無いよ。てっぺんの葉っぱを御覧、ちょっと黄色っぽくなってしまっている。あ れは松虫が巣くっている。それに、ほら、枝が育ちすぎて、上から吊るしてあるでしょう? 植物で も人間でも、自分の体重を自分で支えれなくなってしまったら、もう先は無いよ、仕方ない」
 そういわれて改めてみてみると、確かにあまり葉の色が良くない。全体的に力なく垂れ下がっている 。立派な老木だが、老醜を晒しているようにも見えてきた。
「植物も人間も、ああなってしまえば見っとも無いもんだねえ。若いうちが花だよ。大丈夫なように 見せかけて、中身はぼろぼろだ」
 妙な実感の篭った科白に、私は老人の表情を窺った。老いの繰言では片付けられないような真剣な響 きが篭っているよなきがしたのだが、顔を見ただけでは分からない。

* * *

 老人宅に通ううちに、私にも幾分植物が分かるようになった。植物事典なんかをいじる様になり、庭 の花の名前も覚えはじめた。縁側すぐのところで茂みを作り出している植物の名前が木賊(とくさ) というのだと知ったのも、最近のことである。
 私が覚えたての知識を披露して「あれは木賊という名なんですよね」と尋ねると、老人は「そうだよ 」と言って「良くわかるねぇ、さすが小雪さんだ」と嬉しそうに笑った。そして木賊について色々と 教えてくれた。
「あの草はね、随分由来の古い草なんだよ。一万年前からあったと言われてる。根が随分強いから、 放っておくと彼方此方に根を伸ばしてそこいらじゅう木賊だらけにしてしまう。生命力が強いんだね ぇ」
 本当に老人は植物に詳しい。私のにわか知識では遠く及ばない。ただ感心してへぇ、と言った。老人 は少しだけ瞳を眇めて木賊を見つめている。
「まったく分からないねぇ。あんな愛想の無い草が一万年も生きている癖に、人間はひょいと死んで しまうんだから、分からないねぇ。あたしの庭で、あたしが死んでも、木賊は図々しく生きてるんだ ろう。変な話じゃないか」

* * *

 老人が亡くなった。ある日私がいつもの通りに老人の家へ行くと、老婦人が出てきて「あの人が亡く なってしまいました」と言った。私は困惑した。
「亡くなった?」
「はい。つい三日前に、老衰で。昼寝をしていると思ったら、息をしていなくて」
 いつも老人とおしゃべりをしていた縁側で、老婦人と私とがお茶を飲んでいる。何も無かったように 会話している。
「存じませんでした………ご愁傷様です」
 婦人は少し疲れているように見えた。目のしたには隈が出来ているし、心なしか肩がいつもより下が っているような気がする。お茶を啜る姿は、以前より一層小さい。
 少しの間沈黙が降りて、それから老婦人は語り始めた。
「小雪さん、と言うのは、私の姉です。もともと、あの人は姉と結婚する筈だったんですよ。なのに 、姉は流行病でなくなってしまって、代わりに私があの人と結婚したんです。姉は草や花が好きで、 よく庭の手入れをしていました。姉が亡くなってからは、あの人が引き継いで庭を綺麗にしていまし た。それがこの庭です」
 老婦人は老眼の目を庭へと向けた。手入れの行き届いた木々や草花の上に穏やかな光が差し込んでい た。私は目を細めた。
「あの人は、姉が死んだ後、庭に沢山の草花を植えました。何を考えていたのかは知りません。あの 人、姉が好きだったんですよ。私は姉の代わりなんです」
 婦人は疲れたように目を伏せた。私は庭を見つめた。
 百日紅の木は花が落ちて、躑躅に蕾がついている。小雪さんは躑躅が好きなのだといっていた……… それから木賊に目をやった。老人が死んでも、木賊は立派に茂っていた。そうして、松の木を見上げ た。その古木は厳めしく、けれどもてっぺんが黄色くなって、確かに年老いていた。
 小雪さんが死んでも庭はいつもどおりで、老人が死んでも庭はいつもどおりだった。老人はいつも庭 を見ていた、一体何を思っていたのか。小雪さん亡き後、繁茂し続ける木々や咲き誇る花を見て、一 体何を?